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   アンチヒーローシリーズ 西部劇アウトロー列伝

               「のらり」より転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。



  Part 1  全151回
  
第1回:いかにして西部劇狂になったか   全151回

    ブッチ・キャサデイ Butch Cassirdy

  

最近、血を沸かすような西部劇がなくなったと感じるのは私だけだろうか。
 
大平原、赤茶けた岩がそそり立つモニュメント・オブ・ヴァレー、汗の匂いが画面からにじみ出てくるような野性味あふれるカウボーイたち、輝く星のバッジを胸につけた苦みばしったシェリフ、黒ずくめに決めたギャンブラー、そそり立つ崖に立つインディアン、そして緊張感あふれるガンファイト、息をするのも、マバタキをするのさえ忘れて凝視した西部劇は過去の遺物になってしまったのだろうか。

私の西部劇好きには因縁がある。小学校に上がる前からよく親父の自転車の後ろの席に乗り、映画の2本立てを見に行っていたのだ。親父の西部劇好きは図抜けていて、滑稽なほどだった。『帰らざる川』(ロバート・ミッチャム、マリリン・モンローほか)を観た後、親父はソフト帽をつぶして変形させ、西部劇風のテンガロンハットに仕立て、濃紺の作業服をジーンズ風にはき(当時ジーンズがなかったのだろうか)、もちろん太めのベルトに大きなバックルをつけ闊歩し、すっかりロバート・ミッチャム気取りだった。当然、マリリン・モンローの大ファンだった。幸いお袋にマリリン・モンローの真似をさせることはしなかったが。

私の方からねだった記憶がないし、ねだって叶えられるようなモノではないとあきらめていたと思うが、8歳の時、突然小型の単発式猟銃を与えられたのだ。今つぶさに記憶をたどると、これも親父の西部劇狂いに端を発していると思われる。その少し前に西部股旅物の傑作『シェーン』(アラン・ラッド、ジャック・パランスほか)を親子3人で見に行き、主役のアラン・ラッドをすっかり食ってしまった坊やに親父はしきりに感心していた。

私は映画の真ん中を寝て過ごし、最後の酒場でのジャック・パランスとの決闘シーンのピストルの音で目が覚めた(後年リバイバルで全編通して眠らずに観た)。お袋が、「牧場主の奥さん、シェーンが好きだたんだね」と、7、8歳の私に言っていたのを奇妙に覚えている。

親父はひ弱な彼の息子に(今はともかく、少年時代の私は頭ばかりでかく、ひょろひょろと背丈だけがのびた、およそシェーンの子役ジョーイとは似ても似つかない、都会のモヤシだった)映画シェーンの子役のイメージを押し着せていたのだろう、ともかく私は小学校2年で単発ながら本物の猟銃を手にしたのだった。

10月、猟が解禁になる前に銃の扱いを徹底的に仕込まれ、射撃場で訓練されたが、一番うるさく言われたのは銃の持ち方、銃を持って歩く時の銃口の位置だった。一度何かの拍子に銃を地面に落とした時、弾を込めていなかったにもかかわらず、1週間だか2週間、銃を取り上げられたから、年端の行かない子供に銃を持たせる割には、安全と責任への配慮はあったのだろう。猟が解禁になると私は親父について回るようになった。

親父の生活そのものもパイオニア風を気取っていた。というより映画での西部劇に洗脳されたドン・キホーテのようだった。札幌の郊外になりつつあった円山近くに自分で家を建て、棲んだ。引き戸、襖(ふすま)、障子のたぐいが一つもない、ドアがやたらに多い洋風のバラックで、居間はもちろん幅の広い、ぶ厚い板を打ち付けたフローリングで、壁にはライフルならぬ水平2連銃をかけ、雉(きじ)や鴨(かも)の剥製を飾っていた。親父が移り住んだ大正時代のその時でさえも、そこは開拓地とはとても呼ぶことができないすでに開発された地域だった。そんな家で私は生まれ育った。
 
親父は器用に色々な楽器を弾きこなしたが、大声で歌うとどこかで音程がずれ、子供の耳にも聞き苦しい音痴になった。その声でアコーディオンを弾きながら、『帰らざる川』の中でマリリン・モンローが歌っていたテーマソング「ノーリターン、ノーリターン(No return)アアアハッハーーー」とやるのだが、私には「脳足りん、脳足りん」と聞こえてしょうがなかった。

そんな洗礼を受けたおかげか、私も血統書つきの西部劇ファンになった(カーボーイスタイルで歩き回ることはしていないが)。

20年以上も海の生活をしていたので、テレビを持つどころか観るチャンスさえなかったのが、オカに上ってからというもの、テレビやビデオにすっかり犯されてしまったのだ。無菌状態で育った者は細菌に弱いのだ。それでもしばらくはテレビなしの生活で別に必要とも思わなかったのが、義理の妹のところから大中古で映りの悪いテレビが回ってきた。そして何気なく立ち寄ったレンタルビデオ店に膨大な西部劇のコレクションを見つけ、即ビデオデッキを買い、忘却のかなたにあったはずの西部劇を再燃焼させたのだった。

見たわ、見たわレンタルビデオ店にある傑作、駄作、マアーマアーの作品まで、ほぼ見尽くした。連れ合いは多少軽蔑の混じった呆れ顔で、「皆同じストーリじゃない?」とか、「コレもう見たんじゃない?」と、のたまっているのを尻目に西部劇を見続けたのだ。

確かに結果が分かっている寅さんのシリーズを見続けるのと同じ心理的要素があるにはある。ゲーリー・クーパー、ジョン・ウエインは決して死なない。悪者が死ぬのだ。

それにしても、あのテンポの遅さはどうなっているのだろう。お決まりであるラストシーンの決闘にしろ、ジッとにらみ合い、カメラはアングルを変え、開いた長い足をかいくぐるように相手をとらえ、乾いた西部の町の路面を一陣の風が吹き抜け、ホコリが舞い上がる。しかし、両者はまだ拳銃を抜かず、無骨な手がニギニギをするように、あるいは引きつるように、拳銃に手をかける瞬間を計っている。最近の映画なら、とっくに20〜30人は血煙を上げ、殺されているところだ。






親父の若き頃。普段でさえアメリカ南部の貧農くらいには
見えていたから、ここから西部劇スタイルに変身するのは、
しごく簡単なことであったろう。



親父と一緒に撮ったほとんど唯一の写真。
まだ鉄砲を持つ前のものだろう。
山や沢を歩き回りウルシに酷くやられ、ただでさえ
大きな顔が腫れあがり、さらに一回り大きくなっている。
犬の名前? 当然「シロ」です。

つづく

 

 

第2回:ラストシーンで主人公が2人とも死ぬ西部劇




              2015-12-17



      のらりより転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。









Part 2 全18回




第1回:怪盗"PO8" その1  全18回







1870年から1880年初頭にかけて、北カルフォルニア周辺で駅馬車強盗が頻発した。

当時、西部の町の間では、駅馬車が唯一の交通手段であり、郵便や現金輸送に駅馬車は欠かせない時代だった。犯行はオレゴン州に及ぶこともあったが、大半は北カリフォルニアに集中していた。

この怪盗は"PO8"と名乗り、西部アウトロー史上、最も鮮やかに、しかも単独で30回もの犯行を重ねたのだ。

彼のやり方は単純だった。ただショットガンの二連銃を構え、駅馬車を止め、通常二人、御者と助手とを脅し、積んでいる安全金庫(ストロング・ボックス)を馬車から路上に投げ落させ、駅馬車を追い立てるように遠ざけ、それからご本人はストロング・ボックスを開けて中身だけを持ち去る、いとも理に適ったやりかただった。

怪盗"PO8"の服装も変わっていた。彼の一番初めの犯行と言われている、1875年7月26日、ソノラからミルトンに向かう駅馬車を襲った時には、穀物を入れる麻袋を頭からすっぽりと被り、目と銃口の部分にだけ穴を開け、靴の上まで別の砂糖袋で縛り、徹底的に目撃者の証言(当時は目撃者、当事者の証言が裁判で大きな効力を持っていた)を遮る、と言えば聞こえはいいが、奇妙キテレツないでたちで犯行に及んでいるのだ。

これが怪盗ルパンや怪傑ゾロのような黒い覆面ならまだサマになるのだが、ズタ袋を被っていたのでは映画どころか、ダイム・ノベル("10セント小説")にもなりにくいだろう。

このときの駅馬車の御者、ジョン・シャイン(John Shine)は、後にUSマーシャル、そして上院議員になった人物だが、面白おかしく事件を語っている。もっとも、議員さんになってからの昔話としてのコメントだから、自分が遭遇したオモシロ、オカシイ事件として多少の脚色はあるだろう。

麻袋で身を包んだ賊は、よく響くバリトンの声で、「どうぞ、スロング・ボックスをこちらに投げてください」と、とても丁寧、慇懃に告げ、ストロング・ボックスを路上に投げ落すと、「どうもありがとう、良い旅を続けるよう祈っております」と駅馬車を送り出したと言う。

恐喝に付きものの罵詈造語、カウボーイやアウトロー・タフガイが使う下品な言い回しは全くなく、あくまでも紳士的に静かで丁寧な言葉使いと態度を崩さなかったそうだ。この高い教養を匂わせるどえらく紳士的な態度は、後に彼の駅馬車強盗のトレードマークになった。

頻発していた駅馬車強盗のうち、どれが怪盗"PO8"の犯罪だったのかを確定するのは不可能に近いが、多くみる人で40件、これだけは確実だと思われているのだけでも28件もあるのだ。

収支決算だが、最高額は1,800ドルの金貨と600ドルの現金コイン、最悪(彼にとって)のケースは証券小切手(賢明にも彼は小切手を現金化しなかった)と数ドルだけのこともあった。平均すると400〜500ドル程度だろうか、ウエルファーゴ社が網の目のように走らせていた田舎回りの駅馬車がターゲットだから、ワイルドバンチが襲った大都市間の現金輸送列車ほどの実入りはなかった。

だが、怪盗"PO8"は単独ですべてを行い、しかも全盛期?の1881年には6回もシゴトをこなしている。マメに小さく、しかし数多く稼ぐタイプのシゴト師だったのだ。

ある時、駅馬車に乗っていた婦人が指輪を抜いて彼に差し出したところ、怪盗"PO8"は毅然として、「私は乗客からモノを奪いません。私が奪うのはウエルファーゴ社からだけです」と述べ、それが西部のマスコミに広がった。マスコミがジェントルマン強盗として書きたて"PO8"は、ますます彼の紳士的強盗態度に拍車をかけ慇懃になった。当然、コピーキャット(すぐに真似をする人)がたくさん現れた。

ハナシとして痛快で愉快だが、目標にされたウエルファーゴ社はたまったものではない。すぐに250ドルの賞金(後に800ドルに値上げされた)を"PO8"の首に懸け、専任の探偵も雇い、犯人捜査に乗り出したのだ。

"PO8"はコモゴモのコピーキャットたちと自分を区別するためだろうか、遊び心からだろうか、古典的怪盗が白い手袋やイニシャル入りのハンカチを置いたように、犯行現場に自分の名前を入れた自作の詩を書き残すようになったのだ。

彼は"ブラック・バート(Black Bart)"と名乗り、"PO8"とはそのまま英語読みにして"ポーエイト"つまり「ポエット=詩人」の怪盗B.B.というわけだ。

つづく

 

 第2回:怪盗"PO8" その2




                                2016-1-15




     のらりより転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。














  Part 5 全146回

    ジェシー・ジェイムス  創られた英雄  
        全146回
                     佐野
   


           
           Jesse Woodson James      


   第146回:ジェシー・ジェイムス〜創られた英雄 その146


更新日2015/07/16

 エピローグ  《最終回》


 初めてジェシー・ジェイムスの育ったカーニィーの農園を訪ねたのは、40年近くも前のことになろうか。家は崩れかかった丸太小屋にコロニアル風の木造2階建ての家を無理に繋げた小さなもので、畑の向こうに奴隷小屋が並んでいた。私たちのほかに訪問者はなく、地元の大学で歴史を専攻する学生が順に当番に当たっているだけだった。

その日はアメリカ南北戦争を専門にしている女学生が、寒そうにポツネンと居間の椅子に腰掛けて本を読んでいた。もちろん、入場料などなかった。まだ、カーニィーの町も、この観光資源を有効に生かそうとしていなかった。 

30年経ってから、もう一度カーニィーを訪れて驚いた。広々とした駐車場に迎えられ、大きな博物館が隣接されていたのだ。そこで入場料を払い、ジェシーのピストルやライフル(だと伝えられているものだが)、ゼラルダやサムエルの大きなパネル、ジェイムス家とは関係のない、ただその当時のモノというだけの、家具や馬具が展示された狭い会場を回らなければ、オリジナルの家に入れないようになっていたのだ。もちろん、ゼラルダが目を剥くであろうほどバラエティーに富んだ土産物も売っていた。実際、ジェシー・バーガーにフランク・ビールがあっても驚かなかったことだろう。

家の周囲もアメリカの団地のようにきれいな芝生が広がり、ピクニックテーブルまでそこここに据え付けられている。崩れかかった丸太小屋はそうでもしなければ腐り果ててしまうのだろうか、真っ白に塗られ、丸太の間に詰め込むチンクと呼ぶ材料も、当時は泥、粘土に苔や草の根を混ぜたものだったのが、化学的なコーキング剤に変わっていた。ウィークデイだったのにもかかわらず、狭い家は人息れで蒸すほどの混みようだった。

ジェシー・ジェイムスは、母親のゼラルダが意図したように、地元の観光資源として立派な役割を果たしていた。それ以来、ジェシー・ジェイムスの家、農園を訪れたことがない。

西部劇受難の時代になってからも、ジェシー・ジェイムスの人気は衰えていない。最近、ブラッド・ピッツがジェシー・ジェイムスを演じ、プロデュースにも関わった映画『ジェシー・ジェイムスの暗殺』が造られている。原作はロン・ハンセン(Ron Hansen、原題は"TheAssassination ofJesse James by Coward RobertFord"と長ったらしい)、晩年のジェシー・ジェイムスとボブ・フォードに焦点を絞ったユニークな読み物になっている。 

ジェシー・ジェイムス・ストーリーは、彼の生前からジョン・エドワーズが書き続けていたし、他にもパンフレットのような雑誌や薄手の本など、それこそゴマンと出版されていた。彼の死後も、ジェシー・ジェイムス・ブームは衰えることがなかった。それどころか、ハリウッドが野外にカメラを持ち出し、西部劇を製作し始め、ジェシー物を造り、ジェシーブームに輪をかけた。

アマチュアの数奇者とマジメな歴史家とが渾然となったアウトロー史で、ジェシー・ジェイムスほど書かれた人物はいない。出版物の数の多さは、他のアウトローたちをはるかに引き離し、断トツでトップだろう。

私が気楽に読み流すための、ハリウッド映画の延長のようなアウトローシリーズを書き始めた時、ブッチ・キャサディーやビリー・ザ・キッドと並んで、ジェシー・ジェイムスも当然脳裏に浮かんでいた。旅行のついでに、ジェシーに関係のあった場所に立ち寄り、写真を撮ったり、本を集めたりもしていた。だが、ジェシー・ジェイムスのことを知れば知るほど、彼の暗さ、陰湿な二重人格、変質狂的な殺人、エドワードに踊らされているだけなのに、それに気付かず増長していくエゴなど、嫌な面ばかりが鼻に付き、ジェシー・ジェイムスを取り上げることをためらわせた。

このような軽い読み物にしろ、伝記的要素をフンダンに持った話は、対象になる人物に程度の差こそあれ、惚れ込む要素がなければ耐えられない仕事になる。私にとって、ジェシーは憧れるところが全くない、無視してしまいたい存在だった。第一、ジェシーの生涯は西部劇のもつ大自然の雄大さ、砂塵の舞う辺境の町、ジョン・フォードが描くところのハリウッド映画的要素が全くないではないか。それに、ジェシーはカウボーイとして牛を追ったこともなく、ブロンコ(野生の馬)を乗りこなしたこともなく、バファローを撃ったこともないのだ。

一度でも殺戮に手を染めた者は、ましてやジェシーのように凄惨を極めた惨殺を繰り返してきた者には、生涯拭いきれない臭気が付きまとうのだろう。セントレリアの大量虐殺現場を訪れ、このシリーズには掲載しなかったが、北軍の負傷兵のペニスを切り取り、それを死者の口にくわえさせている写真を見た時、どのような人間がこんなことをするのだろう、そして、そんなことをした人間がそれからどんな生涯を送ったのだろう……という感慨に捉えられるのは私だけではあるまい。

しかし、こんな殺戮はアウシュヴィッツや日本軍の中国、満州侵略など、戦争に付き物だったのだろう。そして、そんなサディズムの極致のような殺しを行った男たちは、戦争が終わるとともに、隣りの親切なおじさんになり、店屋のオヤジになり、公務員や学校の先生に戻ったのだ。

すでに過ぎ去ったこと、現在の自分の存在とはおよそ無関係な史実を取り上げ、それを鳥瞰図的に眺め、批判するのは易しいことだ。私にしても、敗戦直後に生まれ、現在まで戦争を自分の身に降りかかる進行形で体験せずに済ましてこれたことを幸運だとするだけだ。

ジェシー・ジェイムスは16歳で南軍の下部組織に加わり、18歳のときに終戦を迎え、それからサディスティックな殺人鬼・チビのアーチの腰巾着として、ゲリラ集団・ブッシュワッカーになった。ジェシーを血で洗脳された南北戦争の犠牲者だったとすることはできない。南軍に参加した幾千幾万の若者は、それぞれの苦悩を抱えながらも敗戦を受け入れ、真っ当な戦後を迎えているのだ。

ジェシーは異常な戦争状態、戦後のゲリラ戦を殺されるまで続けたのだ。私はジェシーに犯罪者として、サディストとしての性格があり、そんな暗部がブッシュワッカー時代に深く広がって行ったのだと思う。彼は陰湿でご都合主義、自分本位の冷血な犯罪者だったと思う。

ジェシーが持っていたやりきれない暗さと欺瞞的性格が、私に彼を取り上げるのをためらわせた。しかし、アウトローシリーズと名付けた以上、ジェシー・ジェイムスを取り上げないわけにはいかない。

まず、驚いたのはジェシー・ジェイムスに関する出版物の多さだった。私が利用している地元の大学の図書館と町の図書館から、ザッと借り出しただけでも30〜40冊にはなるだろう。絶版になってから久しい本やパンフレットのたぐいはアマゾンを通して購入したり、他の大学の図書館からも郵送してもらった。

当然のことだが、すべてを読んだわけではない。最初の数ページに目を通しただけで、虚実混合で思い入れだけで書かれている西部冒険小説、南軍派、奴隷派のプロパガンダだと容易に嗅ぎ分けることができる。腐った卵は臭いを嗅ぐだけで分かるから、わざわざそれを食べてみる必要はない。 

それほど沢山書かれているのだが、史実に基づいた本や調査レポートは限られている。 私の簡略化したアウトロー伝、ジェシー・ジェイムスを書く上でいつも卓上に置き参考にしたり、引用した主な本は以下の通りである。 







The Rise and Fall of Jesse James by RobertLove
恐らく、ジェシー・ジェイムスを史実から捕らえようとした最初の本ではないかと思う。1926年の出版で、再販されていないが、Amazonなどで入手できる。

Jesse James was My Neighbor by HomerCroy
著者はここで隣人と言ってはいるが、相当離れた隣町メリーヴィルで育っている。おまけにジェシーは16歳でカーニィーの農園を出てから、実家に住んだことがない。だが、当時のミズーリー人たちがいかにジェシーをアイドル化していたかを知るには良い本だと思う。 1949年の出版。

Jesse James was his Name by William A.Settler
オクラホマ大学の教授が書いた伝記。1966年出版。史実を丁寧に追った本で、とても参考になった。

Jesse James "Last Rebel of the Civil War" by T. JStiles
非常に優れたジェシーの伝記だと思う。史実のソースも明確にしているし、社会的、政治的背景にも多くのページを割いている。2003年の出版。

Frank and Jesse James by Ted P.Yeatman
2000年出版。タイトルの通りフランクにも焦点を合わせている。また、参考資料として、多くの写真と手紙を載せている。

Jesse James and the Civil War in Missouri byRobert L. Dyer
Bloody Dawn by ThomasGoodrich
ローレンス、カンサスの惨殺事件を実証を重ねることで浮き彫りにしてる優れた本。

Inside War by Michael Fellman
南北戦争中そして戦後のミズーリー州内でのゲリラ活動全般を知るための絶好の本。

Quantrill and the Border Wars by William E.Connelly
1910年に書かれたものだが、復刻版が1992年に出版された。

他、John Newman Edward"Shelby and HisMen"
"Noted Guerrillas, or the Warfareof the border"
彼の新聞記事は大いに参考になった。古い美文調で読みにくいが;。

南北戦争関連の本は、リンカーンのものを含めると膨大な数が出ている上、その時代の地方史を加えると、まさに天文学的な数になるだろう。今でも、歴史専攻の大学生が好んで取り上げる時代の筆頭は南北戦争だ。  

だが、このシリーズでは、南北戦争のことはジェシー・ジェイムスが関わった極めてローカルな事件のみに限った。

古い雑誌や新聞もインターネットで覗けるようになったので、とても重宝した。写真の多くはインターネットのサイトからの転載である。当然のことだが、インターネットから得られる情報は限られており、往々にして間違っている。手っ取り早く覗けるので便利だが…。

休日になれば、アウトローたちの足跡、主に墓探しに付き合わせた"卑怯な裏切り者"ボブ・フォードの末裔、かすかな血縁であるらしい私の連れ合い"フラカ"にありがとうと、この場を借りて言っておきます。とても本人に面と向かってはテレ臭くて言えないので。


    のらりより転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。

   





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1-50   http://www.norari.net/outlaw_05/back_outlaw_JJ_01.php

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101    http://www.norari.net/outlaw_05/082814.php

   ここからは最終回146までは整理したものがないため順次次回をクリックしてください




                2015-8-8












   Part 4 全82回 


        ビリー・ザ・キッド   佐野

  

 第1回:ビリー・ザ・キッド その1  全82回






130年目の恩赦? 

西欧人はとかくやることが執念深い。諦めることを知らず、水に流すなんてもってのほかで、とりわけ、一度恨みをかうと何時までも覚えていて、機会あるごとにそれを思い起こさせようとする。

アメリカに住むようになってから初めて知ったことだが、"パールハーバー・デイ"というのが、未だに毎年のように大々的にマスコミに取り上げられるのにあきれた。パールハーバー襲撃の日(1941年12月7日)は、ワールドトレードセンタービル崩壊のテロ事件の日が"911"としてアメリカ人の記憶に焼き込まれたのと同様に、アメリカの歴史に永遠に刻まれることになるのだろう。 

個人的な怨恨も何世代にも渡って尾を引く。それに政治的な色付けでもあろうものなら、大いに利用することにためらいはない。


話は飛ぶが、ニューメキシコ州の知事、ビル・リチャードソン(彼はクリントンが大統領だった時、エネルギー大臣を勤めていた)が130年前に要求された恩赦の申請を認め、無罪を言い渡そうとした。もちろん、恩赦を申請したご当人は遠の昔に死んでいるのだが、ともかく話題性は高く、全国のテレビ、新聞に書きたてられた。130年前にその恩赦を要求したのが、21歳で21人を殺したといわれているアウトロー、ビリー・ザ・キッドだった。 


Billy the Kid(Henry McCarty)
1859年11月23日−1881年7月14日

ビリー・ザ・キッドは、ニューメキシコ(当時は領域)で死刑の判決を受け、縛り首になるのを待っていたところ、監視人二人を撃ち、脱獄逃亡し、執念のシェリフ、パット・ギャレットに撃ち殺された。ビリー・ザ・キッドがまだ獄中にあったとき、彼は当時の知事ルウー・ウォレスに恩赦を申請する手紙を書いている。この手紙は驚くほど綺麗な文字で、しかも正しい英語で書かれており、地方の大学で教鞭をとっている私の連れ合いに見せたところ、「私の生徒たちよりはるかに立派な英語だ」と嘆息したほどだ。


ビリー・ザ・キッドが獄中からニューメキシコ領の知事ルウー・ウォレスに
送った恩赦請求の手紙。なかなか端正な字面だ。

ビリーの恩赦請求に対し、ときの知事ルウー・ウォレスは1878年の殺害事件(リンカーン郡の戦争と言われている殺し合い)に関しては恩赦を約束したのだが、空約束で実行しなかった。もっとも、ビリー・ザ・キッドは他にもかなりの数の事件を巻き起こしてはいたのだが…。

それを、130年経った今頃になって、リチャードソン知事がたとえ大昔であろうと、一度知事たるものが約束したのなら、その約束を履行しなければならない、と言い出したのだ。

ビリーには直系の現存者がいるわけでなし、この恩赦は、ビル・リチャードソン知事の売名行為、スタンドプレイだとか、いや、ニューメキシコ州の観光(アウトローゆかりの村や町を訪れる観光客は多い)に大いに役立つとか言われ、ともかく話題になったことだけは確かだ。

だが、この恩赦に妙なところからクレームがついたのだ。ビリー・ザ・キッドを殺したシェリフのパット・ギャレットの孫だという男が、「それじゃ、うちの爺さんのパットの立場がなくなるじゃないか、恩赦になった人間を撃ち殺したことになるんだから」と、正式に裁判所に恩赦取り消しを要求したのだ。 

いろいろな説があるにしろ、一般的にはパット・ギャレットは、ビリーがベッドで寝ているところを撃ち殺したと信じられており、"執念深い"上に"冷血"という評判がパット・ギャレットについて回ることになった。いくらなんでも寝込みを襲うのはフェアじゃないというわけだ。

その時ビリーが寝ていたのが、ペート・マックスウエルのベッドだったところから、殺されたのはペートで、ビリーは銃声を聞きつけ、まんまと逃亡し、今流に言えば、アイディンティティを変え、テキサスで平穏な生涯を過ごしたとか、負傷したがそのまま逃げおおせたとか、ヒーロー伝説に付き物の諸説が流れている。

現知事のビル・リチャードソンは、パット・ギャレットの末裔と面談することを約束したので、またマスコミの目を集めて会見の様子、内容が写真入りで報道されることだろう。

まだビリー・ザ・キッドの恩赦を発令するかどうかの裁定は下されていない。知事にとっては、これだけ話題になったのだから、それで十分というところだろう。

  のらりより転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。




     第2回:ビリー・ザ・キッド その2 〜出生の秘密

           2015-10-14











   Part 3 全43回 

   
       ワイアット・アープ  佐野  


 
第1回  OK牧場の決闘 その1  全43回





西部劇は長い間不遇の時代を過ごしている。

アメリカの4大チャネルで放映されるシリーズものでも、単発のものでも西部劇はこの数年ゼロだ。有線テレビで古い西部劇を専門に放映しているチャンネルがあるにはあるが、新作は生まれていない。「ローハイド」「拳銃無宿」「ボナンザ」「ララミィー牧場」などのシリーズは化石時代の遺物としてホコリを被ってテレビ局の蔵にでも入っているのだろうか。

映画界でも西部劇は異端児扱いだ。長いこと作られていないうえ、クリント・イーストウッドが「アンフォーギブン(邦題『許されざる者』1992年)」を送り出してから、見ごたえのある西部劇が生まれていない。

恐らく、西部劇史上最も有名な決闘は、その事件が起った時から現在に至るまで「OK牧場の決闘」だろう。なんといってもツームストーン(墓石)という町の名前も"OK牧場"という地名も響きがいい。アリゾナ州のメキシコ国境に近い鉱山ブームで沸いていた町、ツームストーンで起った決闘のニュースは、その当時でさえ即アメリカ全土に広がり、脚色され伝説化した。テレビ映画も加えると26本も映画化されている。

ハリウッドに存命中だったワイアット・アープ自身が盛んに自分の物語をジョン・フォードに売り込み映画化した『荒野の決闘』が初めての映画化で、ヘンリー・フォンダが主演した。英語の原題は"My dealing Clementine"で主題歌としてヒットした題と同じだ。大いに流行った"オー・マイダーリン、オー・マイダーリン、オー・マイダーリン、クレメンタイン"を洟を垂をらしたガキの時分、私は大声で、「おまえ、だーれ(お前、誰)、おまえ、だーれ」とがなりたてていたものだ。

少しは英語が話せたはずの親父は、馬鹿息子に何の注意もしなかったが、中学校で英語を習い始めた姉に、「"オオ、マイ・ダーリン"というのは、わたしの愛しい人という意味の英語だよ」と諭され、急にその歌に興味をなくした。それが景気の良い西部劇ソングでなく、ラブソングだと知ったからだろうか。


アメリカで公開された時のポスター。

映画『荒野の決闘』は、ワイアット・アープが死んで10余年経った1946年に作られた。ドキュメンタリー映画でもない限り、映画に史実を求めることに意味がない。映画は一個の独立した作品であり、歴史の教科書ではない。ジョン・フォードは、血生臭くなりがちな決闘談を大いにロマンチックに仕上げた。乾燥しきったアリゾナの荒地に牛を追うイントロダクション、モニュメント・バリーの奇岩をバックにした風景、西部のブームタウン、酒場、そして酒場の女、復讐と決闘と西部劇の要素が『荒野の決闘』にはすべて詰め込まれている。

一般公開前にフィルム・ラッシュを見たプロデューサーも批評家も酷評したのは有名な話だ。ワイアット・アープを演じたヘンリー・フォンダの線が細すぎ、タフなシェリフ、カウボーイのイメージでないこと、空前のヒットとなった『駅馬車』と同系統の活劇を期待しているはずの観客に淡いラブロマンスで味付けした西部劇は受けない、と評されたのだ。 

ところが蓋を開けてみると、ジョン・フォードの戦後第一作目となる『荒野の決闘』は興行的にも、アメリカ国内だけでなく、海外でも大成功を収めたのだった。

つづく

 のらりより転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。




 

  第2回:ワイアット・アープとOK牧場の決闘 その2





           2015-11-23









    西部女傑列伝

  


  西部劇に登場する女性たちの大半は、ほんの少しばかりたくましい男たちに花、色を添えるだけの脇役で、しかも十中八九は酒場の女と相場が決まっている。西部はなんと言っても陽に焼け、汗とホコリにまみれた男どもの世界なのだ。

男女の比率から言っても、西部、パイオニア地域は圧倒的に男が多く、特に鉱山町では女性が10%以下だったところも珍しくない。自然、男どもは女に飢えていた。そんな西部に足を踏み入れる女性はサロンバーで働く娼婦か、信仰の自由を求め家族総出で入植を試みるモルモン教信者が大半を占めていた。合衆国政府が無料で交付していた、ホームステッド(割り当てられた開拓地)に乗り込む場合でも、まず男衆が先に行き、目星をつけてから妻や子供を呼び寄せるケースが多かった。

このアウトローのシリーズを書き始めたとき、私も西部全域が大変な女日照り、女性不足だとは認識していなかった。西部の山師、開拓者、カウボーイたちが、幾人もの女性を妻としているモルモン教徒を目の敵にし、暴虐を働いた由縁は信仰の教義より、"あいつらが、女を独り占めにしているから、俺たちに回ってこね〜"という嫉妬の感情が先立っていたと見てよい。

私なりに西部の山岳地帯、砂漠、大平原、森林地帯を旅し、廃墟になった開拓部落の数々を訪れて驚くことは、彼らのタフネスぶりだ。温暖な日本の気候とはまるで異なる土地、猛暑から厳寒へ移り変わる激しい天気、農業用水を求め、気の遠くなるほどの距離の用水路を掘り、部落の家を造り、数年かけてやっと牛や馬を徐々に増やしたときに、インディアンの襲撃に遭い、すべてを失うことの繰り返しだった。元々そこはインディアンの土地ではあったのだが…。

パイオニア・ウーマン、女性たち、妻たちもヤワではなかった。次から次へと子供を生み、育て、同時に、畑、牧場、牛馬の世話をも受け持っていた。現在、アメリカの平均寿命では女性の方が男性より8歳近く長生きできることになっているが、西部開拓時代の1800年代、男女の差はなかった。男も女も40数歳の早死にだった。男どもが戦争や不健康な鉱山の仕事でバタバタ死んでいったと同じように、女も産褥や多産による疲弊で死んでいった。とりわけ、チョッとした感冒、チフス、コレラ、肺炎、結核に対する抵抗力が疲れきった女性にはなかった。沢山生んだ子供も成人するチャンスは50〜60パーセントで、乳幼児の死亡率は異常に高かった。

アウトロー史に名を残した女性たちは、タフの中でも群を抜いてスーパータフな肉体と精神を持ち、この極めつけの男の世界に割って入り込んだのだ。高名なアウトローの愛人としてではなく、一個の個性を持って、男と同等に、時には男以上に多くの厳しい場数を踏んできた女性群をここで取り上げてみようと思う。




       大平原の女王  カラミテイ−・ジェ−ン

   


 あだ名の由来

西部史に登場する人物にはとかくあだ名をつけたがる。本人自ら通りの良いニックネームを広め、自己顕示欲を満足させ、同時に名を売りたがる傾向がある。これに男女の差違はない。


カラミティー・ジェーン。
颯爽と馬にまたがり、男勝りの様相だが、この写真は1885年頃のもので、ジェーンは34、35歳だったろう。
長身で骨格も頑丈、乗馬、射撃の腕は荒くれカウボーイどものド肝を抜くほどだった。

 カラミティー・ジェーンというニックネームも、本人が大いに気に入り、盛んに吹聴した。カラミティー(Calamity)というのは、不幸、悲運、災害の意味で、あだ名としては決して褒められたものではない。私に逆らうととんでもないことになるよ、という警句に取れないこともない。

彼女自身の語るところによれば(1896年に書いた自伝『カラミティー・ジェーン』)、彼女が斥候としてイーガン大尉の下で働いていたとき、ワイオミング州、グース・クリークでインディアンの急襲に遭い、大尉が落馬したのを先を行っていたジェーンが取って返し、彼を自分の馬に拾い上げ、相乗りし砦に逃げ込み、イーガン大尉の命を救った。その時、イーガン大尉は、「これから、お前をカラミティー・ジェーンと呼ぼう、お前は本当の平原の女王だ」と言った。それ以降、人はカラミティー・ジェーンと呼ぶようになったと…彼女は書いているのだが、これはかなり眉唾の創作らしい。

本当のところは、真実は常に当事者に厳しいものだが、ジェーンが抱え込んでいた、それも四六時中多くの法廷闘争を繰り返していたのだが、原告の男どもだけでなく、検事、判事、裁判官までが彼女一流の暴言に怒り狂い、「この女は疫病神だ、カラミティーな奴だ」と呼ばれたのが最初らしい。

ともあれ、ミズーリー州の北にある今も、昔もヒナビタ田舎町プリンストン(Princeton, MO)に生まれた田舎娘、マーサ・ジェーン・カナリー(Martha Jane Cannary)は、"カラミティー・ジェーン"として、西部史上に名を残し、その名は全米に知れ渡り、数多くのダイム小説の主人公になり、ハリウッドが幾度となく映画に題材を提供することになった。

マーサ・ジェーン・カナリーの出生がはっきりしない。1852年とも1856年とも言われている。 出生届けがないのだ。唯一の手がかりは、家族がプリンストン村から西に8マイル行ったところにあるラヴァーナという、これまたちっぽけな村外れに住んでいたのが1860年の国勢調査で知ることができる。

父親はロバート、母親はシャーロット・バーチ・カナリーで、ジェーンは母親の苗字を名乗っていることになる。南北戦争前のアメリカは、極めつけの男尊女卑の社会だから、子供に父親の姓でなく母親方の姓を名乗らせたのは、何かやむを得ない事情があったのだろう。 父親のロバートはいつも金欠で、それが元で芳しくない噂が多い人物だった。それでも、せっせと子づくりに励んだのだろう、ジェーンの後、続々と5人の子供を作っている。

1866年、南北戦争たけなわのとき、ロバートは一家、妻のシャーロットとジェーンを筆頭に6人の子供を連れて、モンタナ州のヴァージニア・シティーへと西部劇そのままのような幌馬車で西へ西へと移住の長旅に出た。

                        つづく 現在のらり連載中

 

   のらりより転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。

 第2回:カラミティー・ジェーン その2、モンタナ、ヴァージニア・シティーへ


             2016-2-17






  西部女傑列伝 2



   ベラ・スタ− (Belle Starr



 住んでいる山から降り、スーパーで食料を買ったり、郵便物を受け取ったりの小用を足す
町に週に1、2度行く。その町から70キロばかり南に下ったところに"デルタ"という田舎町
がある。メインストリート一本に商店、銀行、ドラッグストアが並んだだけの典型的な中西
部の町だ。そのデルタに分不相応なパイオニア博物館があり、親類の人が来た時など、
そこに連れて行くことにしている。展示物が寄贈されたものばかりなのは田舎の博物館
どこでも同じだが、うまく陳列されていている。ボランティアの館員たちの苦労が偲ばれる。

ブッチ・キャサディーのサイドストーリーとして、デルタの町で失敗した銀行強盗事件を
調べるために、再三その博物館を訪れているうちに、館員のおばさんと懇意になった。
彼女は小学校の先生を退職した後、この博物館にボランティアとして詰めるようになっ
た。小柄で小太りの身体をエネルギッシュに動かし、白の勝ったおかっぱ頭もいかに
も回転が速そうだった。

世間話のついでに、当時、その町で何年に一度起こるかどうかの殺人事件のことが
話題になった。20歳前の兄弟が知人の老父婦を殺害した事件で、デルタの町はその
事件で沸いていた。彼女は小学校でその兄弟を教えたことがあった。そして、あの兄
弟が遅かれ早かれこんな事件を起こすのは見えていた、小学生の時から、犯罪者の
強いDNAをはっきり見て取ることができた、音楽や絵画に生まれつきの天才がいる
ように、彼らは犯罪者として生まれついていた…とキッパリと断言したのだ。"栴檀
(せんだん=白檀)は双葉より芳し"(大成する者は、幼い時から人並み外れて優れ
ていることのたとえ)の逆もありで、双葉の時から異臭を放つ樹木もある…というわ
けだ。

犯罪を犯した人に対して、育った環境の犠牲者とか、戦争のせいとみなす傾向がある。
もし、彼、彼女が異なった時代に生まれ、全く違う環境で育ったなら、犯罪に走らずに
済んだのではないかと、私自身も含めてだが、安易な人間性善説に組してしまうのだ。
だから、彼らに更正のチャンスを与えるべきだ…と根拠の薄い人道主義に陥ること
になる。

アメリカの南北戦争は、たくさんの落とし子を産んだ。人間に内在していた暴虐性が
表面に飛び出し、それがその人の性格全体を支配してしまうのだ。南軍崩れのアウ
トローが無数に出没し、その中の幾人かは残虐な殺しを楽しむかのように犯罪を繰
り返した。デルタの元教師が言うように、彼らは殺人狂と生まれついていたのでは…
と信じたくなる。

生まれついての犯罪者と環境が作り上げた犯罪者の間に一線を引くことは不可能
であるにしろ、最後まで"更正"など鼻にもかけずアウトローとして生涯を過ごし、アウ
トローらしく殺された女性がいた。ベラ・スター(BelleともBellaとも綴られているが、
どちらにせよ、ニックネームだ)は、思春期から死ぬまで犯罪者であり続けた。

 





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  第1回:生まれついての犯罪者はいるか


 ベラ・スター(Belle Starr)は、犯罪者にならなければならない環境に育ってはいない。
当時としては、むしろ金銭的に恵まれた家で、中流以上の家庭で養育され、その上、
両親とも教養があった。 
運命的な出会いと、後の人が語る出会いがあることにはあった。だが、その出会い
が彼女の一生を支配したとまでは言い切れない。ベラの中に煮えたぎるような情熱、
一日でも早く堅苦しい家を出たいという要求があったのは間違いない。彼女は、
コール・ヤンガー(Cole Younger)に一目惚れしたのだ。
ベラ、16歳、コールも若さのほとばしる21歳だった。コールはその歳ですでにジェーム
ス・ヤンガー・ギャング団の首長として高名を馳せていた。出会った場所は、オクラホ
マのヤンガーズ・ベンドだと言われている
(テキサスだという説もあるが)たまり場になっていた上、一仕事終えたギャングたち
がホトボリを冷まし、次の仕事の作戦を練る隠れ家になっていた。ベラの父親ジョン・
シャーリーは自分で参戦こそしなかったが、強い南軍支持者で、南北戦争後も南軍
崩れのアウトローたちを助けていたから、そんな関係でベラはコール知ったのだろう。



16、17歳のベラ・スター

秀でた額に大きな目、軽く結んだ唇、自然に構えていても若さの持つはちきれんばかりの美しさがある。

実際、ベラはとても感情の起伏が激しかった。ベラをコントロールできるのはコールだけだと言われた。



コール・ヤンガーの若い時の写真(撮影年不明)。


この二人が衝撃的な一目惚れ、そして肉体関係を持ったのは自然の成り行きだった

ことだろう。コールは20歳を過ぎたばかりなのに、経験をフンダンに積んだ南軍

テロリスト転じて筋金入りのアウトローになっていた。彼こそ男の中の男だった。

コールはいかにベラに惚れていようとベラに縛られなかった。自分の仲間である弟

たち、ジム、ボブ、ジョン、それにまだヒヨコだったジェッシー・ジェイムス、

兄のフランク・ジェイムスとの結束と仕事の方をはるかに重く見ていた。

ベラはコールたちが何をやっているか十分承知していた。ジェッシー・ジェイムス

の妻ジーZerelda Mimmsのように、あえて自分の夫が外で何をやっているか知ろ

うとしない、家庭に収まっているだけの当時の女性とベラは全く違っていた。

また、コールも自分たちがこなしているシゴトを彼女に隠そうとしなかったのだ

ろう。 

コールとの出会いがベラの一生を決定付けたのは確かだが、デルタの博物館の職員

、元小学校の先生が言うように、ベラが少女の時から反社会的な性格、アウトロー

になるべくしてなったのか、コール・ヤンガーが思春期のベラに彼女の生涯を決定

付けるほど強い影を落としたのかは分からない。

ベラ・スターはその時からアウトローの生活に入り、多くのアウトローたちが彼ら

の生涯において一度や二度は更正しようと変身を図るなか、そんな気配さえ見せ

ずに生涯アウトローとして過ごしたのだ。


 のらりより転載。著作権は佐野とのらり編集部に所属します。−

    つづく

  2回:ベラ・スター 〜 マイラ・マベルの生い立ち


        2016-7-8








1回: ポーカー・アリス 〜12歳、英国からヴァージニア州へ移住 


 
なんといってもこの写真のイメージが強烈で、
この写真一枚で彼女の人生を語り尽くすようなところがある。
晩年、80歳近くなってからのものだが、彼女は生涯、ポーカーに興じ、
生活の糧にし、太い葉巻をふかし続けた。それでも79歳まで生きた。
なんとも存在感のあるツラ構えだ。
人呼んで"ポーカー・アリス"、もちろん本名ではない。登記されている名前は、アリス・アイヴィス・ダフィールド・タブス・ハックケート(Alice Ivers Duffield Tubbs Huckert)とえらく長ったらしい。
?

生まれは英国、デヴォンシャーで1851年生まれだから、カラミティー・ジェーンとほとんど同じ年(ジェーンの出生年月日がはっきりしないが…)、先に取り上げたベラ・スターより三つばかり若い。カラミティー・ジェーンは"平原の女王"、ベラ・スターは"盗賊の女王"と崇め奉られ、ダイム小説の格好の題材になり、文字通り無数の本が出されたが、このポーカー・アリスは、実際、兵隊相手に撃ち合いを演じ、一人を射殺し、幾人かに重症を負わせたりしているのに、ハリウッド映画の主人公になったり、彼女の名前を正面に打ち出したダイム小説にはならなかった。
理由の一つは、ポーカー・アリス自身、当時のゴシップ・ジャーナリズムを歯牙にもかけなかったからだろう。ポーカーの勝負以外のことに、全く関心を払わなかったのだ。
サウスダゴダのデッドウッドでワイルド・ビル・ヒッコックとテーブルを囲み、ポーカーに興じもしたし、ワイルド・ビルが殺された時(1876年)に同じ町にいたが、ゴッシプジャーナリズムがいかにも見たかのように、アリスも同じサロンにいて、銃弾に倒れたワイルド・ビルを抱きかかえた……と書いたのをキッパリと否定し、「ビルが殺されたのはサロン・ナンバー10で、私はマンズサロンにいた。ビルが撃たれたというニューズはすぐに町中に伝わり、大勢の人たちと一緒にナンバー10に駆けつけたが、ビルはすでにコト切れていた」と述べ、ゴシップに立ち入る隙すら与えなかった。ましてや、ゴシップ記者が飛びつくワイルド・ビル・ヒコックとのラブアフェアなど気配すら見せなかった。ただ、何度か彼とテーブルを囲みポーカーに打ち込んだことはあったが。
ギャンブラー然として男どもが黒ずくめのスーツや派手なタキシードで身を固めたように、アリスも非常に高価なドレスを着込んではいたが、それもポーカーというハッタリの大きいゲームのユニホームともいえる。アリスはどこから見ても自分をマスコミに売り込もうという意思はなく、心底からギャンブラーとして(後にギャンブルサロンのオーナーになったが…)潔く生きた。
アリスがイギリスからアメリカに渡ってきたのは、彼女が12歳の時だった。アリスが生まれた年は、どうにかアイルランドの大飢饉が終って間もない頃で、その間、100万人が餓死し、150万人がアメリカに移住しているので、イギリスの片田舎の教師だったアリスの父親にもアメリカ移住熱が飛び火したのだろう。
アリスの父親アイヴァースがヴァージニア州の小中学校に職を見つけ、そこに移り住んだのだ。アリスは全寮制の女子校入れられた。アリスが生涯、強い宗教心を保っていたのは、保守的で信心深い父親とこの女子校での影響だと思われる。滑稽な情景だが、葉巻を銜えギャンブルに興じるアリスは、日曜日には決して賭け事をせず、また後に自分で開いたギャンブルサロン、当然娼婦を抱えていたが、日曜日には閉店したほどだ。
1800年代半ばの"西部熱"はゴールドラッシュが火付け役だったが、金鉱探しだけではなく、西部に行けば一挙に可能性が広がり、牧畜、農業、それに絡んだありとあらゆる商売で成功する…と信じ、まさに我もわれもと西に向かった。西へ西へとまるで熱病に感染でもしたかのような現象はその場に身を置かない限り、熱気を感じ取ることができないのかもしれない。
アリスの父親も家族を引き連れてコロラドのリードヴィルに越した。リードヴィルはロッキー山脈の山中に位置する炭鉱町で、今でも大量の石炭を産出しているが、当時は石炭より金と銅を掘っていた。今ではロッキー山脈を越えるインターステイトハイウェイ70から91号線を南に下り24号線と合流する地点にあたり、デンヴァーからおよそ3時間足らずのドライブで行ける町だ。町には立派な鉱山博物館があり、この町が未だにいかに炭鉱に依存しているかをうかがわせる。
父親アイヴァースはこのリードヴィルに教職を得たのだ。そこで、アリスはフランク・ダフェールドという鉱山技師と出会い、即結婚している。アリス20歳の時だ。
新郎のフランク・ダフィールドは一介の山師や鉱夫ではなく、地質学や鉱道の掘り方に通じたプロの技師だった。フランクは学校教師や鉱夫よりはるか多く稼いでいた。ただ、リードヴィルのような鉱山町では誰でも染まるようにギャンブル、ポーカーに嵌っていた。外に娯楽がないという事情があるにせよ、リードヴィルには何軒ものギャンブルサロンがあり、鉱夫たちは週ごとに支払われる給料を惜しげもなく賭けた。
フランクのギャンブル癖はアリスに飛び火した。最初、若いエネルギーにあふれるアリスは家でジーッと夫の帰りを待つことができず、フランクと一緒にギャンブルサロンに出向き、夫のポーカーの手際を彼の後ろで観ているだけだった。ギャンブルサロンは当然娼婦もいるし、若い女性が出入りするようなところではなかった。連日、夫に付き添うようにギャンブルサロンに通ううち、ポーカープレイヤーたちも彼女を受け入れ、無視するようになってきた。 
そこでアリスは、それまで夫の後ろに立ち、夫のカードだけを見ていたのを、動きながら、他のプレイヤーの手も覗き、ゲーム全体を観察するようになった。そして、ポーカーのゲーム、賭け方、ハッタリの駆け引きを第三者的立場で学んだのだ。この時のギャンブル講座が、アリスを未来の偉大な? ポーカープレイヤーに仕立て上げたと言われている。
-…つづく
 
2017-3-3







  第1回:パール・ハート 〜遅れてきた女性駅馬車強盗の生い立ち


 この有名な写真は、アリゾナで駅馬車強盗を働き、マスコミの注目を一躍集め、時の人になった時のもので、アミダに被ったカウボーイハットと手にしたライフルは写真用にと ゴシップ記者が用意したものだった。

 
 カラミティー・ジェーンは"草原の女王"、ベラ・スターは"女ジェッシー・ジェイムス"、アリスはそのまま"ポーカー・アリス"と、まるで襲名披露のように渾名、公称が付いているが、このパール・ハート(Pearl Hart)は"唯一の女性駅馬車強盗"というものだ。
パール・ハートは遅れてきたパイオニア・ウーマンだった。べラ・スター、ポーカー・アリス、カラミティー・ジェーンよりおよそ20年遅れた1871年(1870年という説もある)にパール・テイラーとして生まれている。場所はカナダのオンタリオ州、リンゼイで両親ともにフランス系だった。
1871年といえば、すでに西部開拓時代は終焉を迎え、残照だけが奥地に残っている時代だ。大陸横断鉄道は1869年に貫通していた。パールが西部辺境に身を投じなければならい理由はまったく見付からない。ただ、西部開拓の余熱に当てられたとしか言いようがない。
パール・ハートを特徴づけるのは、彼女の底抜けの快活さ、表情の豊かさ、それがはち切れんばかりに小さな体に収まっていたことだろう。成人しても、身長は157センチ、体重も48キロ程度だったと言うから、平均身長が今よりもかなり低かった当時においてもプッテットで、大人になっても少女に見られる得な体つきだった。もちろんそれに加えて、彼女が意識していないにしろ周囲を明るく照らす彼女の性格が加わり、とてもモテタようだ。
あまりにアウトゴーイングで天真爛漫すぎる性格を両親は心配したのか、パールを全寮制の女学校に入れている。ということは、両親はかなり裕福だったと言える。全寮制の寄宿女学校は今も昔も非常にお金がかかるところだ。
父親はフレデリック・ハートといい地元で尊敬されていた信心深い男で、リンゼイの町の中産階級と言ってよいだろう。両親の心配をよそに、パールは男友達をたくさん作り、取り巻まかれ、彼女の周りにはいつも追っかけグループがたむろしていた。パールはフェロモンを撒き散らす蛾のようなもので、彼女の周りにはいつもサカリが憑いた男どもが金魚の糞のように付き従っていた。 

私の連れ合いの従妹で4回結婚した女性がいる。相手の男性はいずれも寄りによって、どうしようもない落伍者で、仕事はしないは、彼女に暴力を振るうは、アル中だったり、彼女のクレジットカードを限度ギリギリまで使い込み、個人破産宣言までしなければならくなったりしている。よくぞここまでダメ人間に惚れ込み結婚し、その後底が割れ、大騒動の末離婚し、それにも懲りずにまた同じようなタイプの男とくっ付くものだと呆れるばかりだ。私は、「ありゃ、社会奉仕のゴミ拾いだ」と言っているのだが…。人は男運が悪いと言うが、彼女の方に煽てに乗りやすく、外面の良さにばかり目が行く性向があるのは、メクラでなくても分かる。
パールも何時の頃からか、自分の魅力を意識し、媚を売ることを知り、それを活用し出した。いくら早熟だと言っても16歳で女学校を飛び出し、しがないバーテンダーのフレッド・ハートと同棲し始めたのだから、それ以前にも女学校の門限を破り、サロンバーなどを徘徊していたとみて間違いあるまい。パールはキュートなプッテットで男どもは彼女を両手で包むようにパールに惚れ込んだし、パールも16歳にして天性の妖婦的性格を発揮し始めていた。
このフレッド(フランクともベレットともウィリアムとも呼ばれている)は女タラシのギャンブラーで、しかもアル中だった。フレッドにとって浮かれた小娘を手玉に取るのは簡単なことだったろう。二人は駆け落ちするように一緒に棲み出した。途端にフレッドが豹変し、パールを殴り始め、アルコールが彼の短腹に輪を掛け、酒乱の様相を呈してきたのだった。
それでも、夫婦の間は外から分からないもので、パールは赤ん坊を産んでいる。それも一人ではなく二人も産んでいる。その時、パールの母親はオハイオ州に移住しており、再三、フレッドの元を抜け出し、乳飲み子を連れて母親のところに帰っている。
家庭で暴君的な男に限って、手の平を返すような優しさを見せるものだが、その都度フレッドはパールを迎えにオハイオの実家に出かけ、二人で新しい人生を切り拓こう、俺は生まれ変わる…と、パールを連れ戻している。そんな彼にほだされ、パールはフレッドに付き従い、一緒に帰っているのだ。
この期間、底抜けに明るかったパールの性格が分裂し始めた。フレッドと暮らすのは陰湿な暴君と寝起きを共にするようなもので、そうかといってどこにも逃げ場がなかった。こんな状況で、落ち込まない方が不思議なくらいだ。この間、パールは4、5回自殺を図っている。偶然から死に至る前に発見されたり、パール自身の若い生命力が自らの決断を覆させたりで、どうにか一命を取り止めている。だが、パールの持って生まれた陽気な明るさは彼女の体内から消え去ってしまった。
-…つづく
 
 
第2回:パール・ハート 〜流れ流れてアリゾナ・フェニックスへ

 

   2017-4-30







  カルト・ケイト  西部女傑列伝5
       カナダ生まれの気骨ある女傑 佐野による
?
  西部史には時代が生んだヒーローやマスコミ、ダイム小説が創り上げた虚構の人物が、本物の英雄と渾然一体となって存在する。
ここに登場するのは、ダイム小説の諸説やセンセーショナルなマスコミとはまったく無縁だった闘士で、ただ、大牧場主の横暴から自分の小さな農園を守ろうと、憤然と立ち向かった女性、エラ・ワトソン、人呼んでカトル・ケイト(Cattle Kate)である。
カトル・ケイトこそは西部の真の女傑と呼ぶに相応しいガッツと行動力を掛け値なしに持っていたと思う。そのために悲劇的な最後を遂げることになったのだが…。
今でもそうだが、大資本に立ち向かうのは大変なことだが、西部開拓時代は直接的な武力、暴力を伴ったので、自分の命を賭けなければならない行動だった。
広大な土地と資本を独占している牧畜男爵を大いに悩ませ、目の上のタンコブのような存在となったカトル・ケイトはカナダ、オンタリオ州でエレン・リディー・ワトソン(Ellen "Ella" Liddy Watson)として生まれた。1860年の7月のことだ。父親はスコットランドのレクシャーに1836年に生まれたトマス・ルイス・ワトソン(Thomas Lewis Watson)、母親はアイルランド、ドロモーレ生まれで、ワトソンより5歳若いフランシス・クローズ(Francis Close)だが、その当時としては珍しく"デキちゃった婚"で、彼が結婚したのは、カトル・ケイトが生まれた後だった。そんなところから、ワトソンがケイトの父親ではなく、乳飲み子を抱えたフランシスと結婚したとも言われている。
だが、実情は少々異なると思える。というのは、スコットランド生まれの父親はピューリタンで、母親はアイルランドの生粋のカトリック、この宗教の違いが二人の結婚を阻んでいたと考えるのが自然だろう。両方の家族は互いに異教徒との結婚に大反対したとしても驚くに当たらない。それが結婚を遅らせ、デキちゃった婚になったのだと思う。
ケイトを身篭った時、母親のフランシスは18歳にもなっていなかったし、ワトソンも22歳をようやく越えたばかりだった。当時のカナダの法律では、18歳になると、親の承諾なしに、本人の意思だけで結婚できることになっていたので、フランシスが18歳になるのを待って、婚姻届を出した…と想像する。
最近、ワトソン家の古い聖書が見つかり、そこの書き込みによると、ケイトは結婚まで母親の叔父、アンドリュー・クローズの元に預けられていたと判った。
このアウトローシリーズで混乱を避けるため、エレン・リンディー・ワトソンをカトル・ケイト(牛のケイト)と彼女の生涯を通して呼ぶことにしたが、もちろんカトル・ケイトは渾名で、リサーチャーによると、生前、彼女をカトル・ケイトと呼ぶことはなかったと言っている。家族や友人たちはフラニィーと呼んでいた。母親のニックネームもフラニィーだから、混乱するが、続々と生まれてくる妹、弟たちにとってはケイトは第二の母親的存在だったことだろう。
この夫婦の結びつきの強さは恒常でなく、しかもセッセと子造りに励みに励み、総計17人も子供を造っているのだ。
開拓者に無償の土地を与えるホーステッドシステムはリンカーン大統領が1862年に始め、土地の良し悪しに当たり外れがあるにしろ160エーカー(約65万u)内外の西部辺境の土地がタダで貰えた。それに呼応するように同様のシステムをヴィクトリア女王も打ち出し、属領だったカナダで始めたが、ワトソンの父親の時代には、安いお金で政府から借りる方式に変わっていた。
父親のワトソンはかなりの教養を持った人物で、子供たちの教育に熱心だった。もちろんド田舎のワンルームのカントリースクールへ通っていたのだが、そんな学校で学んだとはいえ、ケイトの読み書きの能力は高かった。生涯スコットランド・アクセントが抜けなかったのはスコットランド系の勤勉な両親に厳しく躾けられた結果だろう。
ケイトは骨太で大柄な娘だった。身長はおよそ175、6センチ、体重はその時で75、6キロあったと思われる。その大きな体の上に顎の張った大きい四角い顔が乗り、目は濃いブルーで髪は真っ直ぐな茶色だった。人の身体つきと人格は一致しないことも多く、筋肉マンの大男が意外と小心者だったり、か弱そうに見える小さな女性が意外な気骨を持っていたりするのだが、ケイトの場合は図体の大きさがそのまま彼女の気骨、性格を現していた。普段は優しく、思いやりに溢れていても、怒らせたら大変なことになると思わせるものがあった。
いつ頃からケイトに西部に対する憧憬が生まれ、乗馬を始めたのか分からないが、ケイトがカナダにいた時から、すでに優れた乗馬技術を身に付けていた。ケイトはいつも、跨って乗るオトコ式の鞍で馬を駆っていた。ベラ・スターのような女式の横乗りサドルは決して使わなかった。ケイトは14、5歳で、すでに男勝りの体格になり、家の中での仕事より、牧童たちと牛を追い回す表仕事を好んでいた。一方、ケイトは家事でも母親を助け、良くこなした。母親は続々と生まれてくる赤子の育児に忙しく、ケイトが台所を受け持っていた。辺境の開拓地に生きる者の、老若男女を問わず、タフネスぶりを見せ付けられる思いがする。
?

-…つづく カルト・ケイト  第2回

  2017-6-2

  

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