速魚の船中発策ブログ まとめ





留魂録・吉田松陰

幕末志士伝  

松下村塾生のその後

天野清三郎 (渡辺萬蔵

辻将曹・維岳

世良修蔵

赤禰武人

広沢真臣 

僧 月性

浦元襄(うら もととし

榎本武揚

大村益次郎

前原一誠

調所広郷と村田清風

高杉晋作

白石正一郎

長崎の龍馬支援者たち

林勇蔵と吉富簡一

周布正之助

筑前勤皇党

西郷隆盛

大久保利通

























































































































































































































































































































































留魂録・吉田松陰

幕末志士伝  

松下村塾生のその後

天野清三郎 (渡辺萬蔵

辻将曹・維岳

世良修蔵

赤禰武人

広沢真臣 

僧 月性

浦元襄(うら もととし

榎本武揚

大村益次郎

前原一誠

調所広郷と村田清風


高杉晋作

白石正一郎

長崎の龍馬支援者たち

林勇蔵と吉富簡一

周布正之助

筑前勤皇党

西郷隆盛

大久保利通















































































































































































































































留魂録・吉田松陰

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天野清三郎 (渡辺萬蔵

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世良修蔵

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林勇蔵と吉富簡一

周布正之助

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西郷隆盛

大久保利通




























































































































































































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幕末志士伝  

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僧 月性

浦元襄(うら もととし

榎本武揚

大村益次郎

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調所広郷と村田清風

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林勇蔵と吉富簡一

周布正之助

筑前勤皇党

西郷隆盛

大久保利通


















































































































































































































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榎本武揚

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調所広郷と村田清風

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西郷隆盛

大久保利通


















































































































































































































































































































































































































































































































































































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天野清三郎 (渡辺萬蔵

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大久保利通













































































































































































































































維新英傑 まとめ






        留魂録・吉田松陰    

  
         


  このHPとブログの中で、好きな人に爺爺は竜馬と松陰を挙げています。 それも今回
の留魂録を読んで気が付きました。 司馬遼太郎さんの描くご両人が好きなだけだったよ
うです。
 考えてみますと、吉田松陰の著作を読んだことがありません。自分の底の浅さを実感さ
せられました。(恥)

  松浦光修さんが新編訳で留魂録を世にだしてくれました。爺爺には、先の明石元二郎
の時と同じ結末でオリジナルを購入しても、さっぱり理解できなかったでしょう。 松浦さん
は前書き・訳・原文・余話と背景や解説を丹念に書いておられます。いかにも松陰を尊敬
し、大いに愛して、気張らずに書いてあります。これを読んでいて、そこが大いに感じられ
て好印象です。

 この留魂録は伝馬町の獄で刑を待っているときに、に親兄弟・友人・弟子に書いた遺書
です。 それも牢のなかの沼崎吉五郎(牢名主)に託し、彼は三宅島に島流しになり、幕
末のころを忘れかけていた文明開化の明治9年に、赦されて野村靖・和作に渡したもの
です。彼は入江九一とは兄弟で久坂・高杉らの門人と松陰が意見の分かれたときに入江
兄弟のみは松陰を支えた人です。その和作に渡されたことも奇跡的なことで、この書が
世にでました。松陰も人物が良く見えたということでしょう。もう一冊を長州に送ったことに
なっていますが、行方不明です。 


  呼び出しの 声まつ外に 今の世の 待つべき事の なかりけるかな

  10月27日 呼び出し(打ち首執行)の声を聞いて

 此程に 思い定めし 出立は けふきくこそ うれしかりける

  
  松陰の兄の民治は明治13年に松下村塾を再開しています。しかし漢学を中心とした
教育は、欧米化のすすむ時代のなかで若者の支持を得ず、明治25年ごろに塾を終えま
す。 民治は明治40年のころに、松陰神社に参拝に来た孫のような若者に「善い人にお
なりなさい」と言って声掛けしたといわれています。 松陰が考えていた学問の姿は・人た
る所以を学ぶなり・ということです。 えらくなられるのではなく、勉強して善い人におなりな
さいと言ったそうです。


             2015-10-25

   追記

   11月1日の大河ドラマ・花燃ゆで留魂録のエピソードをやっていました。







   幕末志士伝  

          悲運の志士たち


 明治の元勲にもなった品川弥次郎が吉田稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう
と語ったとされます。 その吉田稔麿が、戯れに、放れ牛の絵を描き、それに烏帽子と木
刀に棒切れを添えて描いた。山県有朋が、それは何かと尋ねると、稔麿は、「高杉晋作
は俗事にこだわらない俊才で、誰もつなぎとめることはできない、これは、野に放たれた
牛のようなものである、久坂玄瑞は雰囲気が立派なもので、烏帽子をかぶらせ、大きな
屋敷に座らせれば絵になるだろう。入江九一は、(彼らに比べれば)少々劣るところもあ
るが、まあ、木刀くらいのものではある。斬ることはできないが、脅しには使える」と言っ
た。有朋は、残りの棒切れは何かを尋ねた。稔麿は、「それはお前だ、凡庸で、何のとり
えもない」と答えた。



         維新を迎える前後に亡くなった志士達
 
毛利敬親

長州
1819-1871
長州藩一四代藩主
そうせい侯なしでは維新はなし。

吉田松陰

長州
1830-1860
松陰無くして維新はなし
留魂録

金子重之輔
長州
1831-1855
松陰と米艦に乗り込もうとする。岩倉獄で病死

吉田稔麿・栄太郎
長州
1841-1864
池田屋事件で打ち死に
松門四天王、三無生

入江九一(杉蔵)

長州
1837-1864
禁門の変で死亡
松門四天王

高杉晋作

長州
1839-1867
松門四天王
奇兵隊創設
耕山寺挙兵

久坂玄瑞

長州
1840-1864
禁門の変で死亡
松門四天王
西郷隆盛が木戸孝允に対して、
久坂が生きていたらお互い参議などと
言っておられぬという。

寺島忠三郎
長州
1843-1864
禁門の変で久坂玄瑞と刺し違えて自刃

松浦松洞・亀太郎
長州
1837-1862
松陰の肖像画残す、三無生

大村益次郎

長州
1824-1869
日本陸軍の建設の祖、

前原一誠

長州
1834-1876
松下村塾門下生
耕山寺挙兵
萩の乱で斬首

高須滝之?
長州
1835-1866
精鋭隊 石州口で戦死

増野徳民

長州
1841-1877
松下村塾 三無生 、医者
四境戦争で芸州口の軍医
最初の寄宿生

松島剛蔵
長州
1825-1865
医者、長州藩海軍総督
俗論派により処刑

木島又兵衛
長州
1817-1864
禁門の変で死亡

宍戸真澂
長州
1804-1864
禁門の変で死亡

中谷正亮
長州
1828-1862
晋作や玄瑞を松下村塾に誘う。玄瑞と文の結婚の世話する。

木島良蔵
長州
-1862
海軍伝習所に学ぶ、博文を松下村塾に導く。誤解を受け憤死

山田亦介
長州
-1864
俗論派により処刑

時山直八

長州
1838-1868
北越戦争で死亡

日下部伊三治
水戸
薩摩
1814-1859
戊午の密勅

藤田東湖
水戸
1806-1855
水戸学・尊王攘夷論

堀江克之助
水戸
1810-1871
ハリス要撃

武田耕雲斎
水戸
1803-1865
筑波山事件
小林民部・良典
鷹司
1808-1859
安政の大獄

佐久間象山

松代
1811-1864
海防八策、大砲鋳造や電信を行う。
公武合体と開国論を説く。
河上彦斎らに暗殺される

長谷川宗右衛門
高松
1804-1870
安政の大獄

長谷川速水
高松
1835-1860
安政の大獄

橋本左内

福井
1834-1859
松平春嶽を助ける。
西欧の技術の導入を訴える。
安政の大獄で死す。


宮部鼎三
熊本
1820-1864
池田屋事件で死亡。

宮部春蔵
熊本
1839-1864
禁門の変で自害、鼎三の弟

真木和泉
久留米
1814-1864
大久保利通と島津久光上洛へ。
禁門の変で自害

平野國臣
福岡
1828-186+4
薩摩と討幕論。天誅組挙兵と呼応して但馬生野で挙兵。
禁門の変で獄死。

横井小楠

熊本
1809-1869
松平春嶽に招かれ政治顧問。
十津川郷士により暗殺される。

武市半平太

土佐
1829-1865
土佐勤王党

坂本龍馬

土佐
1836-1867
海援隊
薩長州盟

中岡慎太郎

土佐
1838-1867
陸援隊
薩土芸3藩約定書

沢村惣之丞

土佐
1843-1868
海援隊、薩摩・土佐の間で自刃

梅田雲浜

小浜
1815-1859
安政の大獄で獄死。

有馬新七
薩摩
1825-1862
寺田屋事件により暗殺される


 在野

頼三樹三郎
在野
1825-1859
頼山陽の3男、安政の大獄で死亡

野村望東尼
在野
1806-1867
福岡藩尊攘派女流歌人

白石正一郎
在野
1812-1880
長州商人、西郷隆盛、久坂玄瑞、高杉晋作ら援助親交

梁川星巌
在野
1789-1858
漢詩人。安政の大獄の対象であったが3日前に死亡。

日柳 燕石

在野
1817-1868
高杉晋作をかくまった罪で4年入獄、私財をなげうった博徒親分


     
           2015-11-5

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松下村塾生のその後  



      
          塾生  松陰記念館より


 松下村塾は安政3年3月下旬・1856から安政5年11月下旬・1858までの2年と8か月あまりの短い期間です。
その間に下記のように90名ほどが学びました。

  松下村塾生 一覧
 http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/jinbutsu/syokasonjyuku.htm


  塾生総数      91名

  維新で死亡     15名
  明治に官で活躍   27名
  明治に民で活躍   7名
  行方不明 ・病死   16名
  記録不明        26名

 松陰は偉大な教育者であり、維新の功業を成し遂げた革命家でもあります。また考えようによっては偉大な宗教家だともいえます。なにせキリストのように死してから、それを契機として、弟子たちの大活躍があるのですから。
 また、塾生の適切な人物評も残しています。 松陰がそれで大きく評価した弟子たちは維新の前に死亡しています。
 明治の元勲山県有朋がわずか2か月の在塾期間であったのには驚かされます。その彼も盛んに松下村塾のことは述べたといいます。その短い期間にどれだけの教育ができたのだろうかと疑問をもちますけれども。
 松下村塾いに学んだ塾生のことについてまとめてみました。

 現代の似たような名前の志の無い政治家を輩出した政治塾とは大きな違いがあります。



 主な塾生

 氏名     在塾期間     その後


  1. 維新で死亡した塾生



 
 高杉晋作  俗論党を破り藩論を討幕に統一、四境戦争に勝利した。


 赤根武人  2年5月  第3代奇兵隊総督、高杉と意見衝突、処刑される

 吉田稔麿  2年2月  池田屋事件で死亡
 松浦松洞  2年2月  松陰の絵を残す。尊王攘夷のために切腹して諫める
 杉山松介   4月   池田田事件で死亡


 
 久坂玄瑞  2年5月  禁門の変で自決

 
 寺島忠三郎  8月  禁門の変で久坂と自決

 
 入江久一   4月   禁門の変で死亡

 大谷茂樹  7月  俗論派により切腹

 有吉熊次郎  1年6月 池田屋事件生き残る、禁門の変で自刃

 阿座上正藏  1年2月 禁門の変で自刃

 広勝之助    9月  禁門の変で藩兵をおさえるのに失敗で自刃


 
時山直八   8月   北越戦争で戦死、奇兵隊参謀

駒井政五郎  1年2月  八幡隊総督 函館戦死

 飯田正伯    4月 御用金目的で金品強奪して獄死


 
 前原一誠  1年1月   明治9年 萩の乱で死す





  2. 明治で政界・官界で活躍した塾生

 
  
 国司仙吉  1年9月  秋田県令


 品川弥二郎 1年2月  子爵

 
 伊藤博文  1年2月  初代内閣総理大臣
 
 
 飯田俊徳  12月  米蘭留学へ、鉄道長長官

 
 松本鼎   1年     和歌山県知事


 
河北義次郎  8月   米英留学して外交官

  
 山田顕義  11月    用兵の天才、司法大臣、法典編纂に尽力

 
 野村和作・靖 11月  神奈川県令、逓信大臣

 
 山県小助・有朋 2月  元老、内閣総理大臣


 滝弥太郎  1年  奇兵隊総督、脱退騒動鎮圧、岡山地裁裁判長

 
 岡部富太郎  1年 四境戦争、戊辰戦争を転戦

 岡部繁之助  2年 富太郎弟、工部省製作所長

  
 正木退蔵    4月 東工大初代校長、再度渡英

 
  
 天野清三郎・渡辺萬蔵  安政4年冬入塾  脱藩密航して欧米で実務的に勉学
                 長崎造船所長、日本郵船社長

 
 尾寺新乃丞  1年2月  司法省・工部省、伊勢神宮神官に任命

 久保清太郎  1年7月  三重県度会県令





 3. 明治に民間で活躍した塾生


 
 山根考中  2月  36歳入塾、戊辰戦争で敵も治療した医者

  
 小野為八  2月   奇兵隊の砲術指導

 
 増野徳民  2年2月  最初の寄宿生、 医者

 
 大賀大眉  1年10月  奇兵隊援助・後方支援 御用商人となる







  写真は萩博物館より転載したものがあります。

  松陰の兄の民治は明治13年に松下村塾を再開しています。しかし漢学を中心とした教育は、欧米化のすすむ時代のなかで若者の支持を得ず、明治25年ごろに塾を終えます。 民治は明治40年のころに、松陰神社に参拝に来た孫のような若者に「善い人におなりなさい」と言って声掛けしたといわれています。 松陰が考えていた学問の姿は・人たる所以を学ぶなり・ということです。 えらくなられるのではなく、勉強して善い人におなりなさいと言ったそうです。留魂録のところにも同じことを書きましたが、教育の目的はこの言葉でしょう。


      2015-11-15


  
   「中々奇物、他人未(いま)だ深くは取らず、僕独りこれを愛す」 松陰談

       
         1843-1939

  安政4年・1857に有吉熊次郎に誘われて14歳で松下村塾に入る。勉強嫌いであったが、松陰からは愛されて高杉晋作宛の手紙にめんどうをよくみてやってくれと書いている。

 塾が閉じた後で長州の軍艦にのり江戸に行く。久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に加わる。 しかし、政治運動には向かないと自覚した。それで脱藩し密航して上海に逃げた。また藩命により米国に留学した。その後イギリスに行き、グラスゴーで造船所で働きながら船つくりを学ぶ。手先だけでなく学問も船つくりには必要だと感じて、昼間働きながら夜学に行き学びました。3年たちまだ不足で米国のボストンに渡り、働きながら学びました。明治6年に帰国して日本の造船業を起こし、長崎造船所の初代の局長になる、日本郵船の社長をも務めた。
 松下村塾の保存事業に尽くします。

 幕末期に留学した人は才能・能力の高かったが故でしたが、天野清三郎は実務をこなしながら、必要な学問・理論を夜学に通うなどして学んで帰国しました。机上の学問のみでは、明治の貢献には役立たなかったでしょう。もちろん志のない人では尚更です。


 1857・安政4    松下村塾に入る
 1858・安政5    11月下旬に閉塾
 1860・万延元年  丙辰丸の江戸行に参加
 1863・文久3    奇兵隊に入る
 1864・元治元年  
 1867・慶応3    藩命により兵学修養のため長崎派遣,英米国留学 

 1873・明治6   帰国、 工部省に入る
    明治12  東洋1の立神ドック完成
    明治16  日本最大の木造船小菅丸完成、 長崎造船所初代局長
    明治24  49歳で官を退職し、日本郵船社長を勤める。
    明治25  松下村塾の保存事業に尽くす。
 1939・昭和14  死亡

         2015-11-29

























    辻将曹・維岳 
   芸州藩の大政奉還建白書提出、植田乙次郎


 1823-94
 ヨットを広島に置くようになってから1年余になります。その間にカ−プが2度も優勝する。そのおかげで、なじみのスパが感謝セ−ルをして、露店風呂が無料になり、ささやかな恩恵を被っています。広島は小生の多くある第2の故郷の一つとなりつつあります。
 龍馬暗殺に関する雑誌の記事に、大政奉還後に会津・桑名藩が元に戻すべき行動を起こしたと有ります。両藩が作った暗殺者リストの中に龍馬があり、それは残念・不幸にも実行された。薩摩の西郷、大久保、小松はそのことを知り急遽帰国して難をまぬがれた。また、芸州藩のリストに辻将曹と植田乙次郎があげられています。両者とも知らない人物であったので興味を持ちました。芸州藩の大政奉還建議があったのも驚きです。

 辻将曹は明治2年に永世禄400石を賜った。新政府の参与となったが明治3年に政府の職を辞任した後は政府の中枢にすえられることはなかった。そのせいか、彼は世に余り知られていない。
 辻将曹の祖先は、田中吉政に仕えた辻重勝が関ケ原戦いで西軍に属し、石田三成配下の杉江勘兵衛を討ち取っている。田中家が断絶のあとに浅野家に仕えた。 辻将曹は一二〇〇石の家督を継承する。上級武士である。彼は藩内の改革派であったが失敗続きであった。藩主が浅野長訓になった時に、家老・執政として抜擢され藩政改革を行う。
 芸州藩は関ケ原の後に福島正則が入封する。ほどなく転封されて浅野氏が入った。豊臣政権で五奉行の要職を務めた浅野長政の続きで、外様であるが将軍家とは婚儀を結んでいる。徳川家から信頼されて要所をまかされた芸州藩であるが、長州攻めの先鋒を拒否して、幕府側につくことはなかった。 藩の参政をしていた辻将曹は幕府から目を付けられ謹慎を命じられている。ほどなく許されて彼は第二次長州戦争の和平交渉を勝海舟と行う。後に、辻将曹は勝に周旋の才をほめられている。辻将曹は和議後に起きた討幕の気運に同調して薩長芸の討幕3藩同盟に参加した。
 土佐藩が大政奉還の建白書を提出した翌日には、芸州藩も続いて提出する。土佐藩は幕府を支えるのが目的であるが、芸州のは拒否されれば討幕すればよいとのものだった。 鳥羽伏見の戦いでは薩摩の独断専行・突出として芸州藩は兵を出さなかった。結果的には日和見行動と見なされて、後に参加した土佐や佐賀の後塵をあびることになる。薩長芸の藩閥政治が維新後に起きてもおかしくない芸州藩の位置であった。
 明治二三年にもなると明治は落ち着いて見直す気分になったのでしょう。辻将曹は元老院議管に任じられ男爵に叙され華族となる。 彼は薩摩と土佐の意見が対立したときに、土佐の後藤象二郎らをなだめて討幕の方向にまとめた功績があるのだから。彼は維新後にはきらびやかな役職につくこともなく、困窮する士族の授産事業をすすめた。

   植田乙次郎  1825-1893

 幕末の安芸藩(広島県)藩士。藩主浅野長訓の人材登用により文久3(1863)年武具奉行,野村帯刀,辻将曹(維岳)の藩政改革を助け,元治1(1864)年の第1次長州征討では幕長間の戦争回避工作に当たる。慶応2(1866)年の第2次長州征討では出兵拒否の藩論のもと,長州藩士広沢真臣と長芸不戦協約を結び,その後勘定奉行に昇進。翌3年,藩論が武力討幕論と大政奉還論に分化するにつれ前者を代表,9月山口に赴き薩長芸三藩出兵同盟を結ぶ。10月上洛し,王政復古の計画に参加。帰藩し出兵準備に当たり,世子浅野長勲に従い上洛。翌明治1(1868)年1月錦旗を携えて帰藩し,山陽道の旧幕領の摂収に当たった。
        2017-11-19







    世良修蔵



1835-1868

世良修蔵が第2次長州戦争での四境戦争・大島口の戦いで、見事に第二奇兵隊を率いて周防大島を幕府軍から奪還しました。彼が軍略を考え、その指導指揮無しでは、数に劣る長州軍では大島解放をなしえなかったでしょう。この戦いに勝利したことにより、第二次長州戦争の全体的な長州勝利の先駆けとなった。

 世良修蔵と言えば、奥州戦争のときに、居丈高な態度をとり、遊女と居たところを暗殺された悪い人物程度の認識で、大河ドラマ的なイメ−ジしか持ち合わせませんでした。 また、大島口の活躍にも無知であったので、唐突に薩摩の大山格之助と共に世良修蔵が実質的な奥州鎮撫部隊の指揮官として登場したのも疑問でした。
 わずか五七〇名の兵しか持たなかった、持たせることができなかった新政府の方針は、奥州の諸藩兵を会津と戦わせることでした。 品川弥次郎などはその困難さを理解して先に指名されそうになった参謀を辞退しました。 会津藩は恭順策を新政府が受け入れないと見越して、着々と参戦準備をしていました。 その困難な状況で、彼が非妥協的な態度をとることになった。 彼だけが悪者にされて歴史に残ってしまったというのが事実でしょう。 その能力から明治の山県有朋に並ぶ元勲になったでしょう。

 略歴

 彼は長州・周防大島に生まれ、藩校明倫館や月性さんの清狂草堂などに学ぶ。阿月にあった浦靱負が開設した私塾・克己堂で教鞭をとる。浦家の家臣となり世良家を受け継ぐ。赤禰武人に誘われて奇兵隊に入り、第二奇兵隊軍監となる。赤禰武人の事件で内応を疑われて謹慎。復帰して周防大島を解放した。京都で薩摩藩との折衝にあたる。鳥羽伏見の戦いで八幡山の幕府陣地を突破して活躍。奥州鎮撫総督府の参謀となり福島で暗殺された・



訪れた、 阿月・柳井市にある世良修蔵宅跡


 歴史庵から世良修蔵の大島解放作戦
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/bakutyouwar/oshima.htm

 敬天愛人による世良修蔵暗殺事件の周辺
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm

   
  2016-12-28





    赤禰武人



 1836-1866

 明治の元勲伊藤博文が塙忠宝(国学者)と加藤甲次朗(歌人)を、誤解により暗殺したといわれています。 敵対する勢力には吉田松陰や久坂玄瑞らも同様に排除しようとしました。幕末以来に、新選組を含めてどちらの側にいても、排除する手段として暗殺が行われてきたといってもよいでしょう。その悪しき伝統が戦前戦後にまで続きます。
 最近では明治の偉業をこの暗殺者がなした業として否定する意見も聞かれます。会津の人間も許されて明治になって貢献した歴史もあることから、一面的にとらえてはなりません。

 阿月・柳井市を訪ねたときに、赤禰武人はここの克己堂で教鞭をとっていました。屋敷跡の石碑もあります。しかしその墓もあるということで山道を探りましたが、整備されてはおらず、見つけることはできませんでした。いまだに地元でも裏切り者の汚名ははれていないのでしょうか? 
 彼は攘夷戦である下関戦争で最後まで戦ったという記録がア−ネスト・サトウの文にあるといいます。 山県有朋には、その戦いで最初に逃げたとかも言われて、その後に幕府と通じた疑いをはらせませんでした。山県有朋とは確執があったらしく、明治になってからの復権も彼が執拗に妨げたと言われています。晋作は死ぬ間際に赤禰武人のことを悔やんだ。

 幕府側についた人間でも明治になって政府側で活躍した人はいます。 赤禰武人もせめて蟄居で殺さずにおいてくれれば相当の活躍をしたでしょう。 敵対勢力の生存まで奪うことはやめたいものです。続いていますが。



訪れた阿月にある屋敷跡

 略歴

 長州柱島で生誕、15歳で月性の清狂草堂、浦靱負の郷校である克己堂で学ぶ。短期間であるが松下村塾に学ぶ。梅田雲浜の望南塾、安政の大獄で雲浜が逮捕されると同じく捕らわれる。釈放され藩より謹慎処分。謹慎を解かれると高杉晋作らと英国公使館焼き討ちに加わる。攘夷戦の下関戦争に加わる。奇兵隊の第3代総督に就任。第1次長州戦争後に俗論派と諸隊との融和を図る政策で高杉と対立する。功山寺挙兵で晋作が藩論を統一。裏切りの嫌疑を受けて処刑された。

    2016-12-29









    広沢真臣   ひろさわさねおみ



 1834-1871

 章典禄は、明治維新の功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄である。
主な大名と公家以外の受禄者を下記にあげる。

西郷隆盛  2000石
大久保利通、木戸孝允、広沢真臣   1800石
大村益次郎   1500石
板垣退助、小松帯刀、吉井友実、伊地知正治、岩下方平、後藤象二郎  1000石
大山綱良、由利公正      800石
黒田清隆    700石
山県有朋、前原一誠、山田顕義     600石
木梨精一郎、寺島秋介、河田佐久馬、渡辺清、前山精一郎   450石
福岡孝弟     400石
西園寺公望(公卿)、西郷従道、北郷久信    300石
桂太郎      250石
桐野利秋、岩村高俊、船越衛       200石
中牟田倉之助、曾我祐準、山地元治    150石
土方久元、江藤新平、島義勇    100石
谷干城 、前田正之      80石
青山朗      35石
村口村吉    10石
別府晋介、池上四郎、篠原国幹、高城七之丞   8石

  上のリストの中で上位に広沢真臣がいることです。大村益次郎よりも禄が多い。浅学な小生には,大河ドラマや歴史小説でも彼を見たり読んだりしたなじみがありません。彼に興味を持ちました。

 広沢真臣は明治4年に暗殺された。犯人は不明である。1864年禁門の変後には野山獄に投じられます。高杉晋作の功山寺挙兵の後で獄から出された。四境戦争では勝海舟と藩を代表して休戦講和を結ぶ。 100石どりの上級武士なので藩政の中心にいたのでしょう。明治維新後には参議に任じられて新政府の中心になる。長州の藩を代表する人物としてその地位になったのか? 薩摩の西郷や大久保にあたる長州の木戸と広沢だが、世に知られていない。記録も少ないので調べてみても、よくわからず。 性格は温厚で亡き後に、病がちな木戸が後を託す広沢を失い大いに悲しんだという。 前原一誠と仲が良かったというが、前原も暗殺事件のときに銃撃を受けた。彼が生きていれば前原の乱も無かったかもしれない。

  2017-10-15

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  僧 月性 1817-1857




 
月性像 海を見ている 酔えば剣舞を舞ったという

 ヨットで柳井から広島に向かう大畠瀬戸を通過して、天候悪化の状況によりまた柳井に引き返した。 そのおかげで港より徒歩10分の距離にある妙円寺・月性展示館にいくことになる。
 そこでは館の方より詳細な説明を口頭で聞けました。今までに経験したことのないことです。月性に関して興味のある事項・事績を知ることができた。

 月性は同時代の西郷さんと入水自殺した薩摩の月照さんのほうが有名かもしれません。 この長州の月性さんは、長崎にてオランダ船を見て海防の必要性を痛感して、ペリ−来航の際には性別・身分にかかわらず志あるものが新たな兵制を確立して立ち向かうべきという海防五策を提唱した。これは後の高杉晋作の奇兵隊に大きな影響を及ぼす。 彼は妙円寺の住職であったが、真宗教団の腐敗を糾弾して護法意見封事を表した。
 また三一歳で私塾・清狂草堂を起こし久坂玄瑞・世良修蔵・赤根武人・大洲鉄然らがその門をたたき、松下村塾とともに維新の英傑を輩出した。



改修中 清狂草堂

 親交の深かった吉田松陰は病で死んだ月性のことを遺書のなかで、藩内で最も才知が優れて称賛すべき月性であると書き残している。

 彼は漢詩人であり、感銘深い漢詩をのこしている。
  
将東遊題壁
男児立志出郷関
学若無成不復還
埋骨豈期墳墓地
人間到處有青山

将(まさ)に東遊せんとして壁に題す
男児 志を立てて郷関を出づ
学 若し成る無くんば復た還らず
骨を埋める 豈墳墓の地を期せんや
人間 到る処青山(墓地)あり



妙円寺と月性展示館  高杉晋作も滞在したという

    2016-12-4








   阿月 と 浦元襄(うら もととし
 


 阿月 市街地

 柳井市にある 阿月に行きました。 バスも柳井市から二時間に一本くらいしかない不便なところです。 それゆえ町に不思議・なつかしい静寂があります。車も人も見当たりません。

 それでも、ここには幕末の多くの人材を輩出した学校がありました。領主であった浦元襄・浦靱負(うら ゆきえ 通称)が克己堂を作った。赤根武人・芥川義天らが学び世良修蔵が教鞭をとった。


 克己堂 正門




赤根武人 奇兵隊総督



赤根武人 屋敷跡 現在は漁船修理屋です





芥川義天(第二騎兵隊書記)の生誕地 円覚寺
 この円覚寺に生まれました



世良修蔵宅跡

 赤根武人のお墓があるということで、バイパスを抜けて看板の案内をたよりに山道を登ってさがしてみたが見つかりませんでした。ほとんど人が通わないような道で蜘蛛の巣が張っていたり倒木があったりする道です。やっと見つかった畑作業をしている人にたずねても知らないとのことでした。 山根武人は奇兵隊総督をつとめながらも意見の相違で打ち首になった人ですので、地元でも大事にされていないのではと思われます。世良修蔵も官軍の実質的なトップの位置にありながら暗殺された人ですが、後世の作家のわざとの演出による不人気かと思います。赤根や世良ご両人はもっと正確に歴史認識されてもよいでしょう。

 それにしても今でもこのような寂れたといっては失礼ですが、小さな町より偉人が出たということは良き指導者・月性・浦靱負がおれば、もちろん吉田松陰しかり、人材はでてくるものだとつくずく思わされます。本当に自分の住んでいる町内レベルといっても言い過ぎでないでしょう。

    2016-12-5








     榎本武揚  1836-1908



 榎本武揚は下級武士に生まれて長崎の海軍伝習所に学ぶ。函館奉行の従者として蝦夷地を見る機会があった。幕府よりオランダに留学生として派遣されて、機械学・砲術・造船学・化学などを学んだ。 デンマ−クとプロシア・オ−ストリアの戦争があり、観戦武官として両軍を観戦する。その戦いが英国の仲介で和平となり、戦争は武力だけでは解決せず、外交や国際法での解決があることを知る。それで海律全書を重視するようになる。
 幕府が注文した開陽丸が竣工したので、オランダより1867年に廻航して帰国する。すぐにそれを率いて戊辰戦争に参加した。将軍慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れて、下船中の榎本を残したまま江戸に逃げ帰る。ほどなく大政奉還して明治の世になった。榎本の艦隊は半数の4隻を維新政府に引き渡すことになり、残り4隻で幕府の残兵を乗せ蝦夷地に渡る。国際法の知識を活用して、米仏に蝦夷共和国を認めさせる。しかし追ってきた新政府軍に敗れた。榎本は海律全書を黒田清隆に降伏前に託す。黒田は榎本助命に坊主になってみせるほど懸命になり助けた。桂などの長州人は目先の感情で惜しい人を抹殺してきたが、最後は西郷隆盛の決断で助命された。



 坊主になって助命した黒田清隆

 新政府の要請を断ってきたが、蝦夷地の開発ならと4等書記で政府につとめるようになる。現場実務で活躍し外交畑で千島樺太交換条約、天津条約、大津事件後の対応、足尾鉱毒事件の対処などで活躍した。 当時は富国強兵は当たり前の政策でしたが、戦争はそればかりでないと考える人は、榎本だけであった。
 日清戦争では東郷平八郎が中国兵の乗船した英国船を沈めたが、国際法にのっとった処置であったので、問題にならなかった事件がありました。これも榎本の海事国際法を海軍に熟知させた影響であろう。最後に黒田清隆が先に亡くなったのだが、その葬儀委員長は榎本が務めた。



  年表
 1836 享保7年  御徒目付榎本武規の次男として誕生
 1851 嘉永4年  昌平坂学問所入学」、 53年卒業 成績丙
 1854 安政元年  函館奉行堀利煕の従者として函館・樺太に行く
 1857 安政4年  長崎海軍伝習所2期生として入学、58年修了
 1862 文久2年  オランダ留学に出発、 63年ロッテルダム到着
 1863 文久3年  観戦武官として赤松則良と共にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をみる
 1867 慶応3年  軍艦開陽丸でオランダより廻航して帰国
   軍艦開陽丸  


    9月 軍艦頭となる。 年末に幕府艦隊を率いて大阪湾に移動。
 1868 鳥羽伏見の戦い(1/3-6日)敗戦後に富士山丸にて負傷兵や新選組を積んで江戸に帰る。
    5月 徳川宗家が70万石減封決定、
    8月 抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて       江戸を脱出
    10月 五稜郭を占領した。
    12月 蝦夷共和国総裁に選挙(入札)によりなる
          投票結果
      「投票」総数856票の内訳は、以下の通りであったという
       榎本釜次郎 156
       松平太郎 120
       永井玄蕃 116
       大鳥圭介 86
       松岡四郎次郎 82
       土方歳三 73
       松平越中 55
       春日左衛門 43
       関広右衛門 38
       牧野備後 35]
       板倉伊賀 26
       小笠原佐渡 25
       対馬章 1
 1869 明治2年 5月 五稜郭を開城し降伏
 1872 明治5年 3月放免 開拓使に任官
 1875 明治8年 駐露特命全権大使として千島樺太交換条約を締結
 1880 明治13年 海軍卿に就任、
 1884 明治17年 天津条約締結に貢献
 1885 明治18年 第1次伊藤内閣で逓信大臣 以後各大臣を歴任
 1891 明治24年  大津事件で、青木周蔵外務大臣の引責辞任で外務大臣就任
 1897 明治30年  足尾鉱毒事件の責任をとり辞任
 1908 明治41年  73歳で死亡

        2017-3-22







      大村益次郎 1824-1869



 愛媛県宇和島に昨年行きました。そこでは大村益次郎やシ−ボルトの娘イネのことが展示されていました。 大好きな司馬さんの「花神」も若いころ読みましたが、彼と宇和島のことが思い出されません。その本で、調べてみようと本棚を探しましたが見つからず、どこに行ってしまったのでしょう。 最近に、テレビで彼のことを取り上げた番組を見ましたので、自分なりに調べてみました。なぜ題名が花神なのかさえ思い出せませんけれど。
 大村益次郎は長州の村医者の長男に生まれ、成長して適塾で蘭学を学び塾頭になりました。いったんは村に帰り医者をやります。当時蘭学の盛んな宇和島伊達藩に行きます。そこで蒸気船をつくり、江戸で幕府の講武所教授になります。翻訳では彼の右にでるものはいなかったといいます。西洋兵学も読むことによって身につけました。 彼は幕府の方針に疑問を感じ、長州でその後は働きます。長州での軍政の改新をした力を用いて、四境戦争において、二〇倍にもなる戦力の幕府軍を打ち破り、倒幕への道筋をつけました。彼は官軍の事実上の総参謀をつとめ戊辰戦争に勝利して維新の功労者となる。その後の軍の近代化の確立をめざすが、特権を失った士族の不満者に暗殺されてしまう。
 長州では武士は役に立たないと奇兵隊や諸隊が設立されていました。幕府との戦いが必須のなかで藩士・武士の改革が必須のものとなります。武士は子飼いのお伴を連れてその個人的な功績・光明を見せることによる戦いを八〇〇年も続けてきました。 大村は近代化するため、そのお伴・奉公人を石高により藩に差し出させて兵として訓練しました。武士は今まで持っていた自尊心や栄光を捨てて、下に見ていた徒・足軽のような戦いを余儀なくさせるようなものですから、大変だったでしょう。藩主の命ということでやりとげます。ここに日本での武士・もののふの伝統は一新され時代が変わる歴史的なこととになります。先祖伝来の甲冑を売りはらいミニエ−銃を買えと藩士に指導した。
 薩摩は下級武士が指導しましたが藩士としての行動でしたので、明治になってからその気分を捨てるのに西南戦争までひきずることになる。 改革者の大村を殺すことに加担した疑いをもたれることにもなる。大村は維新後に今後注意するのは西であると発言している。

   大村益次郎の改革
  1.近代兵制に改革、 武士の終焉、 諸隊の整理統合して藩の統制下に。
  2.最新の近代兵器を装備する。ミニエ−銃 有効射程は二倍になる
  3.散兵戦術を指導 自分の判断で攻撃して身を守る戦術、 士気がたかくないと成立しないが。
  4.民心を掌握した戦い方

  第二次長州征伐・四境戦争により長州が幕府に勝利し、関ケ原の戦い的な意味を持ち、一年後に
  徳川幕府は滅亡した。 独学で西洋軍学を学んで戦略戦術を実践した、大村なくしては明治の偉業はなかったでしょう。

 彼の言葉に「今求められる士とは、散兵となり、指令となり、斥候ととなり、方略智謀を用い、それらを導き指導して己が武器となし得る学問を修めた者のみが士だと説く。然れども当今諸士は小銃短剣(銃剣つき小銃)の使用を持って士の武術と心得ている」 これは宇和島藩にいた1853年のことである。1856年にペリ-が来て、幕府諸藩は幕府歩兵を銃化していく。ただ洋銃を扱えるだけでは役に立たないと提言していた。幕府軍は四境戦争や鳥羽伏見の戦いでは洋式銃の装備した兵力では維新軍より上回っていた。大村のいうとおりに幕府軍は敗北したのである。

   年表
 1824  周防国鋳銭司の村医・村田孝益の長男として生まれる
 1842  防府の梅田塾で医学や蘭学を学ぶ
 1843  豊後日田 広瀬淡窓の咸宜園で学ぶ
 1846  緒方洪庵の適塾で学ぶ、長崎の奥山静淑に2年遊学するも塾頭になる



 適塾 
 1850  帰郷して開業する
 1853  ペリ−来航、宇和島の二宮敬作を訪ねる。低い禄高で雇われたが100石どりへ改められた,兵書翻訳掛。
 1854-55 長崎に行き、軍艦製造の研究をする。日本で2番目の蒸気船製造。 村田蔵六に改名
 1856  私塾鳩居堂を開く、幕府の蕃書調所教授方手伝い、幕府講武所教授になる
 1860  長州藩士となる
 1863  萩へ帰国
 1864  兵学校教授方、製鉄所建設にかかわる。四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外国人応接掛に任命される。4か月で士官育成をめざすカ     リキュラムを組む。長州兵を促成栽培。
 1865  高杉晋作の耕三寺挙兵で保守派を打倒、100石取りの上士となり大村益次郎永敏と改名、奇兵隊の指導をする。
      藩主の命を借りて軍政の近代化を実行
 1866  幕府第2次長州征伐の号令、
    5月 大組御譜代になる、農相階級の兵士を再編、藩士を再編、隊の指揮官に戦術の教育
    6月 石州口の実戦指揮
    7月 薩摩藩の協力でミニエ−銃4300丁、ゲベ−ル銃3000丁購入。浜田城陥落させる。
 1867  薩摩の倒幕の働きがけに慎重論をとなえる。 掛助役に左遷される。
 1868  大政奉還、 明治新政府の軍防事務局判事として朝臣となる、御親兵を訓練し近代国軍の基礎をつくる。
     東京に来て彰義隊の討伐など治安回復に貢献する。事実上の新政府軍総司令官として指揮をとる。
 1869  戊辰戦争の功績により1500石賜る、藩兵を中心とする大久保らの意見と徴兵令による政府直属の軍隊を創成しようとする           大村の意見が分かれた。大村は辞表を提出するが他に人材なく兵部大輔(次官)に就任。長州藩士神代直人ら8人に襲われ死亡。

       2017-3-25、 8-23

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   大村益次郎の生誕地とお墓を訪ねて



四辻駅

 かってこの地は鋳銭司村と称していましたが、JR の駅名には四辻となっています。なぜこの良い名前を付けなかった理由はわかりません。新山口駅の一つ手前の無人駅です。 下記の地図に生誕地とお墓に行く道を示しました。  (地図のように歩くのがオススメです)


JR四辻駅よりの地図

 大村益次郎はこの地で生まれ3年ほどして父親の縁のある地へ転居しています。


生誕地碑

 ここからお墓に行くのに駅近くの地下道を抜けて、高速道路沿いの国道2号線山陽道沿いを歩きました。お百姓さんの民家が黒塗り瓦で敷地も広く豊かさを感じさせます。

 

 民家

 JRでの三原から広島までの車窓風景は茶色の瓦屋根の民家を多く見かけます、ところが広島を過ぎると黒塗り瓦屋根の民家を目にする機会が多い、なぜか地域的特徴があるようです。


 民家その2 この自動車は余計

 お墓と鋳銭司郷土館は大きな長澤池のほとりにあります。5階建ての吉南病院が目印です。案内板に沿って少し山奥に入っていくと大村益次郎と妻の琴子のお墓があります。暗殺された後この地に運ばれてお墓ができた。


 右にあるのは妻琴子のお墓

 鋳銭司郷土館には展示室が2つあり、一つはこの地にあった銭鋳造所に関するのも、もう一つは大村益次郎に関する展示である。 両親の息子にあてた手紙が展示されていて母親うめの手紙が興味をひいた。女性らしいやさしい字で、村医者で3反百姓の妻である人でも教養高い知性が感じられる。


 郷土館


 郷土館のとなりにある大村神社

 帰りは地図上を歩き、物静かな山間の雰囲気を楽しめます。司馬さんの小説「花神」のなかで、この地をほめる言葉を大村が妻琴に述べる描写があるという。

 鐘楼の立派な誓安寺をのぞいたが静かなたたずまいであった。


 誓安寺

 途中でシラサギが道路中央に立ち止まり、こちたが気配を消して過ぎ去ると羽ばたいて逃げることもなかった。



 ほどなく、生誕地にたどりつく。


  2017-9-26




   大村益次郎の暗殺者たち


襲撃された旅館跡

 あの暗殺さえ無ければと思うことが多々あります。維新を行ったどちらの陣営でも起きています。 現代になってもこの悪癖は続いています。止めようよ・いけないこと・という文化は起きないものでしょうか?

 大村益次郎の暗殺についてしらべてみました。

 維新のエネルギ−になった一つに攘夷運動があります。この大きな力を得なければ維新も起きなかった。薩摩や長州は外国軍との攘夷戦に敗れてそれを方針転換していく。 それを受け居られない人もいました。 大村益次郎は開国政策や徴兵制の推進などを推進していきます。長年続いた武士の地位の歴史的変更を迫るものでした。武士の没落による不満と攘夷論者が結びついて大村は暗殺の犠牲者となった。

 犯人のひとり神代直人(長州御楯隊 )はこう述べています。「当時在京中の大村兵部大輔殿は、全体的に西洋かぶれの奸物であり、明治維新前後で朝廷のお考えが変わってしまったのは、ことごとく皆大村殿の奸策によるものだ。大村殿を斬殺する事が出来るならば、自ら一洗の道を立てて見せよう」

 暗殺犯は8人です。 長州・攘夷論者の神代直人、団伸二郎、太田光太郎達3人と相楽総三の赤報隊士関連の関島金一郎(信州)、金輪五郎(秋田久保藩)、五十嵐伊織(越後居之隊幹部)の3人、他に 宮和田進(三河吉田藩)、伊藤源助(土佐陸援隊)の2人で合計8人となる。

 伊藤源助は土佐人でその関連で岡崎強助、河野 某、堀内誠之進(兄)、堀内了之輔(弟)、板野治郎らが嫌疑を受けて取り調べられる。 もっとも疑われたのが海江田信義(薩摩)は、上野彰義隊での戦闘で大村益次郎の指揮に不満をもったという人です。 暗殺が行われた京都の地で、当時に彼は要職にあり、捕らえられた犯人たちに手心を加えてという。

 さらに興味をひくのは、土佐の堀内誠之進(兄)で大村暗殺事件では嫌疑を受けただけでしたが、広沢真臣の暗殺にかかわった。彼は薩摩で収監され終身禁獄になり、西南戦争で牢を放たれて、西郷軍に加わる。敗色が濃くなると土佐に行かされて林有造に土佐決起をながす。 林有造はここでも述べたことがありますが、土佐出兵計画で逮捕されますが、出獄後は議員・大臣となり郷土・宿毛のために尽くします。 人材は少し経てば有用なものとなることも多いので、榎本武揚しかり、生存を断ってはいけない。

 大村益次郎の辞世句                                                         
 今さらに何をかいはん 代々を経て 君のめぐみに報ふ身なれば
 君のためすつる生命は 惜しからで ただおもはるる国の行く末


   2017-9-30










    前原一誠


1834-1876

 前原一誠・佐瀬八十郎(やさろう)と云えば、俳優・佐藤隆太がNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で前原の役をを演じた。容貌もよく似ていて好演でした。

 大村益次郎よ、彼の出世を羨んだ人から「お前はいつ参じた」のかと、不平不満を大村は被った。 しかし、 前原一誠は、松下村塾にわずか10日といわれるが、そこで学んだ。また、高杉晋作と功山寺挙兵に参加する。それでクーデタ−が成功して俗論派を打倒し、藩論を変えさた。結果としてその後の維新に多大な貢献をしている。北越戦争にも参戦し功績をあげていた。大村とは違い長州藩の「草莽くっき」のひとりである。

 吉田松陰からは「才能は久坂玄瑞に及ばない、知識は高杉晋作に及ばない、しかし、前原は完璧な人物なので、久坂、高杉もこれに及ばない」「八十は勇あり、智あり 誠実人に過ぐ」「吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し」と人物評されている。
 私は性愚かで、学問は未熟である。先生の一言一句を聞き漏らさず、忠義の心あつくして自信を持って自ら任じなければならない」と、興奮して前原の日記にしたためている。

 維新の功業のなった後には参議に就任し、大村益次郎暗殺のあとにはその地位を受け継いだ。その彼が萩の乱・前原一誠の乱で斬首を受けることになった。どうしてそうなったのだろうか?

 前原は越後の判事に就任した折には年貢の半減や信濃川の河川改修を計画する。その計画は新政府の了解を得えられなかった。長州藩は維新後に奇兵隊や諸隊の半減に近い整理を行う、彼らの貢献に対して藩は満足な論功恩賞を与えはしなかった。前原は長州藩や新政府の指導者と政策の進め方に意見の相違・対立するようになる。前原は誠実な人ゆえに、不平を持つ士族やかっての使い捨てにされた下級隊士の不満を受けて立ち上がることになったのが乱の理由でしょう。薩摩の西南の役の西郷隆盛と同様な立場と思われる。
 また、萩の乱には松陰の親族や玉木文之進などが一緒に亡くなることになる。 

 確かに国民皆兵・徴兵制なくしては日清日露戦争はどうなっていたかわかりません。意見が違うとはいえ何とか生き延びてほしかった人材です。

 日本史で受験した小生ですが、その知識たるや、萩の乱・秋月の乱、前原一誠の乱は不平士族の乱と題目ばかりを暗記するばかりでお寒い限りでありました。

 現在進行中ですが、前原某の乱がありその結果は週末にも判明します。同じように松下塾の関係者ですが、志の大きな違いがあるようですね。


  年表

1834年  長州藩士・佐瀬彦七の長男八十郎(やさろう)として誕生
1857年  松下村塾で学ぶが10日ほど
1862年  久坂玄瑞とともに長井雅樂の暗殺を計画
1865年  高杉晋作と功山寺挙兵,俗論派打倒
1867年  四境戦争では小倉口の参謀心得として戦う
1868年  北越戦争 参謀として長岡城攻撃、会津攻防に参戦、
1869年・明治2年 版籍奉還、大村益次郎暗後兵部大輔就任、諸隊解散・脱隊兵騒動 
         越後府判事就任         
1870年・明治3年  章典禄600石賜る、 参議に就任、木戸におり討伐
          諸隊の反乱鎮圧される。
1871年・明治4年  廃藩置県
1874年 明治7年  佐賀の乱
1875年・明治8年  元老院議官への推任を辞退 
1876年・明治9年  神風連の乱(10/24),秋月の乱(10/27)、萩の乱(10/28)
  、      奥平謙輔とともに斬首される









   調所広郷と村田清風


  薩長が維新の立役者になったのは、藩の財政改革に成功していたからです。それゆえに、近代的軍備の大砲、最新式小銃、西洋軍船を購入できた。時代が人物を作るとは言え、薩長の人物だけでは維新が成ったとは言えない。調所も村田も報われたとは思えませんが、その歴史的貢献は大きいものでしょう。

調所広郷・笑左衛門   1776-1849 73歳




寛政10年・1798 江戸へ出府して隠居していた島津重豪に見いだされて登用される。後に藩主・島津斉興に使番・町地頭・町奉行に携わる。天保3年・1832年に家老になる。
 500万両に及ぶ借金で財政破綻寸前になっていた藩財政を1840年には200万両の蓄えになるまで回復させた。その政策は
1. 借金を無利子で250年の分割払い
2. 琉球を通じて清との密貿易
3. 大島などで取れる砂糖を専売制にして独占した(黒糖のみで230万両の利益)
4. 行政・農政・財政改革・商品開発をおこなう。 
嘉永元年・1848年に老中阿部正弘に密貿易を糾弾されて服毒自殺、斉彬による密告とも言われている。年収12−14万両で利息が80万両を越えていた状況からの再建なのでそのスゴサが分かる。



村田清風 天明3年・1783-1855・安政2年 七三歳  




1838・天保9年 藩政の実験を掌握する。財政再建は
1. 37か年賦皆済仕法(家臣の負債を減額して37年で完済)
2. 蝋の専売制を廃止、自由な取引に。四白政策(紙・蝋・米・塩)の振興
3. 商人に対して運上銀を課税
4. 下関に越荷方を設置。藩による海運を助ける倉庫金融業。
8万貫の負債を返済、雄藩となる基礎を築く
 借金を減額された商人や越荷方の成功により大阪への商品が減った幕府からの横やりで退陣した。


   2018-2-8


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  高杉晋作の功山寺挙兵



功山寺

 維新へのタ−ニングポイントは高杉晋作の功山寺挙兵だと思います。
長州藩の藩論は尊王攘夷で正義派が支配していた。下関で外国船に砲撃を加える。天皇の意に沿う攘夷の決行であった。外国船が反撃をしてきたが、これまでの武士では戦闘で役立たないと判明する。それにより、藩は今後の攻撃に備えるために、身分の垣根を越えて人材と兵員を募集せざる負えなくなる。奇兵隊や諸隊ができることになった。外国の脅威に直面したので、長州の庶民にまで郷土防衛意識が高まり、多くの献金や5000人にも及ぶ諸隊員が集まる。

 京都では、長州の尊攘勢力が8.18の政変により駆逐され、その奪回に禁門の変が起こり敗れて、長州は朝敵になる。第1次長州征討の状況になってビビった藩主親子は、藩論を俗論派にゆだねることになった。
 危険を察知した高杉晋作は九州へ逃れた。尾張の征討総督の徳川慶勝と参謀の西郷隆盛は長州と幕府との戦争を嫌い、穏便な配慮による開戦回避工作を進めた。

 野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、正義派家老が切腹させられたことを知り俗論派打倒を決意して馬関に帰還する。高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人です。 諸隊の動きは、藩に解散を命ぜられていたので恭順の姿勢が多数であった。
 晋作は初戦に勝利すると、商人や庄屋層の強い支持を受ける。消極的であった山県有朋の奇兵隊や他の諸隊も晋作側に参加する。最終的には俗論派藩兵を破り、山口に藩主を迎えて武備恭順の政策を藩に取らせることになる。

  昭和14年(1939)に97歳で没した松下村塾出身の渡辺蒿蔵・天野清三郎は。「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、高杉にはどうもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多しと語り残している。
 それでも禁門の変で人材を失い、俗論派を打ち破るには高杉の人物とその個性があってこそです。功山寺挙兵の時の絶望的な状況での高杉の決断がなければ、明治はもっと遅れて、奇兵隊的なものでは無くて薩摩的な侍文化を引きずったものになっていたでしょう。

 晋作は250石の上級武士ゆえにその生い立ちを引きずるものがありました。功山寺挙兵の諸隊幹部への演説で「 元が土百姓である奇兵隊総督・赤禰武人に騙されていると言い、さらに自分を毛利三百年来の家臣であり、赤禰ごときと比べられては困ると叫んだ。そして「願わくば従来の高誼に対して、予に一匹の馬を貸してくれ。予はそれに騎して萩の君公のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす」と絶叫した。」下級武士である山縣や農工商身分の諸隊幹部たちにとって、毛利家家臣を強調する演説では士気を鼓舞出来ず、決起の賛同者を得ることは出来なかった。それで、わずかな80名余の賛同者と決起することになった。

 商品経済の発展と伴に成長して村々を支配してきた庄屋・豪農クラスの今回の挙兵への大きな支持を得て、彼らの資金と人により高杉は俗論派に勝利することができた。封建的な俗論派の政策は庄屋らには耐えられないものであった。 高杉が負けたなら、自分たちで一揆をおこして戦う、という程の庄屋が幕末には出現していました。
 勝利した後も高杉は生い立ちに捕らわれていて、諸隊を掌握できずに、活躍した諸隊を藩士で構成される干城隊が諸隊を指導・統制する体制にしたいと思っていた。 最後は諦めて統理の地位を辞し無役となり、伊藤と英国留学を考えるまでになる。 長州は身分ではなく能力主義を採用して、大村の指導の下で諸隊を中心に軍備を整え、第2次長州征討を勝利する。勝てなかった幕府はその後に討幕されて明治の代に進んでいく。

 高杉の考えていた奇兵隊ではなく、それを支えた庶民的な奇兵隊が明治を切り開いていく。長州のその軍政が明治の徴兵制への道になる。西郷の強力な押しが無ければ徴兵制が成立しなかったかもしれないけれど、西郷も高杉もそれの意味するところは分かっていなかったのかもしれない。両人ともそれぞれの時点で、歴史の転換には彼らの力を必要とした。
 西欧列強に対してサムライのままの体制では伍していくのは難しかったことでしょう。サムライが築いた維新ですが、それには武士の終焉を必要とした。


関連年表

文久3年・1863
 5/10  長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限であった。
 6/6   高杉は奇兵隊結成(藩命?)
 8/16  藩の正規兵である撰鋒隊が長州藩諸隊の奇兵隊と衝突し撰鋒隊士
が斬殺された事件により晋作は奇兵隊総督を解任される。
 8/18  8・18の政変

元治元年・1864
 7/13 井上聞多と伊藤博文 英国から帰国
 7/19  禁門の変
 7/23  長州追討の勅命下る。
 8/5  四国艦隊下関砲撃
 8/14  井上は高杉に従い講和条約締結
 9/25  井上聞多武備恭順を説く、暴徒に襲われ重傷を負う
 9/26  周布正之助が自殺
 10/21  諸隊の解散を命令
 10/23  高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出
 10/29  高杉は白石正一郎宅で九州諸藩の浪士と会談
 11/10  高杉は九州で同氏を得る目標に失敗、野村望東尼の下で潜伏
 11/11  俗論派は幕府へののため正義派三家老の福原元|、益田親施、国司親相を切腹させた。
 11/15  諸隊は五卿を同行して長府藩へ向かう
 11/16  長軍総督尾張藩主徳川慶勝が広島に着陣する。
 11/17  功山寺を五卿の滞在所とする。尚義隊・忠勇隊や残余の諸隊が集合
 11/18  征長軍は幕府・朝廷へ詳報と開戦時期延期を伝えた。
 11/20  九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。
      高杉は三家老切腹を知る。帰還して俗論派打倒を決意する。
 11/25  高杉が筑前より馬関へ帰還。
 12/8  赤禰武人が萩より長府へ帰還。諸隊の恭順を提案。一部の諸隊は受け入れた模様。
 12/12 五卿は衆議した後、九州行きに同意した。
 12/13 高杉の挙兵計画に諸隊幹部は反対した。
 12/15 高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と
        石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人


高杉晋作挙兵像(功山寺境内)
     
 12/16  下関新地会所を襲撃、食料金銭は得られず。豪商らのから2千両借、周辺住民が120人志願。
 12/19  渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、 
      松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。
         (甲子殉難十一烈士)
 12/26  長州海軍を説得して3隻を手に入れる。
 12/27  征長軍に解兵令、高杉は吉富藤兵衛に井上聞多の奪還と献金を依頼
         
 慶応元年・1865

1/2  伊崎会所襲撃
1/6  絵堂の戦い、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊
     山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派
     の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した
     状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。
 1/9  井上聞多奪還、吉富200人を連れて御楯隊に参加した。
 1/10  太田にて藩政府軍を撃退した。
 1/11  太田にて再度撃退。高杉と伊藤は諸隊が立ち上がり勝利したのを  
      喜ぶ。馬関の力士隊・遊撃隊を伊佐へ進め合流する決定をした。
 1/14  呑水峠(のみずたお)で大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍   
      の撃退に成功する。 同日、高杉らが合流し諸隊の士気は上がる。
     三條実美以下五卿が馬関より渡海した。

1/16   高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を
率いて絵堂方面より進んだ。粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこ
れを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。

1/18   山口を拠点とした御楯隊(鴻城軍)は、萩へ続く要所である佐々
並の藩政府軍を襲撃. 俗論派が鎮撫の名のもとに藩主敬親自身を出
馬させることを危惧していた。 高杉は、非常時に議論に明け暮れる
のは大馬鹿者であると言い、藩主父子が出馬するなら周囲に従う兵
を全て打倒し藩主父子を諸隊陣営に迎え入れればよいと答えた。
馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。 諸隊
には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の
人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や豪商は兵糧
や多額の金銭を積極的に寄附した。萩を除く防長すべてを正義派で
ある諸隊が掌握するようになる。

1/30   奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開
始した。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。

2/5  藩政府は萩城内の戒厳を解いた。

2/9   藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。 毛利元周は諸隊追討
を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図る
べきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。

2/14   奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷
へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進
軍し、萩城周辺を制圧した。俗論派の幹部らは逃亡した。 、諸隊は
萩城へ入城する。 高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。
逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉
えられた。

2/22   敬親父子は維新の政治を敷くことを誓った。
2/28   敬親父子は山口に帰る
3/17  敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針
     を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。

慶応2年・1866
 1/21  薩長同盟
 6/7   四境の役・大島口の戦い

   2018-3-11








  白石正一郎 1812-1880


 白石正一郎は下関の商家・小倉屋の生まれである。北前船が盛況でその航路の要地であったこと、村田清風の政策による海運助成策により長州の豪商となる。国学者の鈴木重胤(1812-63)の門人であった。そのことから次第に幕末志士を援助するようになる。はじめて正一郎と会った西郷古兵衛(隆盛)は、彼の人柄を「風儀雅品」「叮嚀(ていねい)の者」といっており、平野国臣も筑前藩主への建白書のなかで、彼を「正直なる者」と評している.
彼は、高杉晋作を支援して自宅は奇兵隊発祥の地になる。弟・廉作と伴に自ら入隊して莫大な資金援助をした。奇兵隊には自前の資金は無かった。晋作の最後の面倒を白石家で見ている。

 子孫の方が日記を現代訳にされてウエブに公開されている。それによると、平野国臣をかくまったり、薩摩とは、後にご用達になることから、さまざまな面倒を見ていることが知られる。坂本龍馬も彼にやっかいになるのですが、薩長同盟でのさきがけとして、長州の米を薩摩に売りミニエ−小銃を長州が手にする周旋を龍馬がした。これを読むと薩摩は以前より米の買い付けをしていたのが分かる。白石正一郎の薩長への日々の濃密な接触が無ければ薩長同盟も無かったのではないかと思わされる。

  白石正一郎日記・現代語訳
  http://www.shiraishilo.com/entry14.html

 彼の家は幕末志士のアジトであり出入りしたものは下記のように多数にのぼる。

  薩摩藩
  島津泉洲(久光)大島三右衛門(西郷清盛)大久保一蔵(利通)町田助十郎
  田中新兵衛 奈良原喜八郎 林休右衛門 村田新八 吉井仲介(友実)
  大脇祐九郎 柴山受次郎 橋口壮介 道嶋五郎兵衛 三雲東一郎
  与倉猶二郎
  益山東石 町田真五郎 波江野休右衛門 森山新蔵 樺山三円
  井上右近 高橋新八 税処喜三右衛門 嶋津豊後大夫 三原藤五郎
  有村俊斎(海江田信義)浜田勇右衛門 石見半兵衛 米良喜之介 桂民之進
  有馬新七 堀仲左衛門(伊地知壮之丞)井上弥八郎 
  高崎善兵衛(五六の父)
  利強兵衛 高崎猪太郎(五六)板鼻俊蔵 川治正之進 重野厚之丞(安繹)
  種子島武人
  田中直之進(謙助)加藤半兵衛 洋中半兵衛 竹内五百都 原田彦右衛門 
  高崎左太郎(正風)

 長州藩
 高杉晋作(谷潜蔵・春風)桂小五郎(木戸孝允)久坂玄瑞 伊藤博文
  山県狂介(有朋)
  品川弥二郎 野村靖(和作)鳥尾小弥太 山田顕義 三浦梧楼
  楫取素彦(小田村文助)土屋矢之介 中村文右衛門 竹内正兵衛 滝弥太郎
  川上弥一 松島剛三  前原一誠 久芳内記 周布政之助
  来原良蔵 楢崎八十槌 宮城彦輔 前田孫右衛門 国司信濃
  飯田八郎左衛門 入江九一 三好軍太郎(重臣)滋野謙太(清彦
  )益田右衛門介
  山県弥八郎 時山直八 杉山松助 福田佐平 福原三蔵
  片野十郎 林半七(友幸) 井上聞多(薫) 宍戸小弥太(幾)厚東次郎助
  湯浅祥之介 貴島又兵衛 波多野金吾(広沢真臣) 野村宇中 乃美織衛
  松浦亀太郎(松田和介)

   土佐藩
  吉村虎太郎 谷守部(干城) 坂本竜馬 土方楠左衛門(久元)石川誠之助(中岡慎太郎)
  田所壮介 桶口真吉 北山登 大野武八郎 安藤勇之助 田中謙助(光顕)
  細川左馬之介

 筑前藩
  平野次郎(国臣) 河野若狭之進 吉永源八郎 熊谷丈平 入江勝四郎
  北条右門(村山斉介)徳田隼人 工藤左門(藤井良節)沢原与左衛門
  清水正平
  大田左内 中村円太 藤四郎 野村望東
 久留米藩
  真木和泉  淵上郁太(郎)(牟田大助)坂井伝二郎 大鳥井利兵衛
  荒巻洋三郎
  池尻茂四郎 真木外記 岡田三津三 原道太 川崎三郎(角照三郎)
  松浦八郎
 肥後藩
  堤松右衛門 上松巳八 轟武平(武兵衛) 川上彦斎
 秋月藩
  戸原右橘 神木小介  間嘉太夫
 岡藩
  小河弥右衛門 広瀬友之丞 後藤喜右衛門
 大村藩
  渡辺清 渡辺昇 
 安芸藩
  穂上輝門 渡辺三哲 頼東三郎 佐藤勘三郎
 対馬藩
  多田壮蔵

 京都
  僧月照 結城筑後守 井上信濃 勝山弥太郎 田中河内介
  (以上、計一五一名)

  慶応元年・1865年末頃から援助のし過ぎで資金繰りが悪化したといわれる。薩摩にも長州にも絶大な貢献したのだけれども、明治になっても政商・財閥になって巨万の富を得たわけではなく、明治8年には破産した。顕職につくこともなく、赤間神宮の宮司となり69歳で死去した。



   2018-2-14








   長崎の龍馬支援者たち
                    

お金もない浪人風情の龍馬が船を用立てて海援隊を立ち上げることができたのは、長崎の豪商小曾根家と大浦慶の援助があったからこそです。
 
 小曾根家は祖父の代には貧しかったが六左衛門の時に越前藩や佐賀藩の御用商人となり、長崎屈指の豪商となった。小曾根乾堂は長男として生まれる。乾堂は、詩作そして書・画・篆刻、はては音楽・陶芸と、多彩にして多芸なジレッタントであった。松平春嶽や勝海舟と深い関係があったことから坂本龍馬を支援することになる。龍馬は西郷隆盛の援助を受けて海援隊を設立したが、その本部は小曾根家に置かれた。



小曾根乾堂  1828-1885

 4男小曾根英史郎はいろは丸の会計係として乗船した。3男の正雄は剣の達人で京都奉行に出仕して鳥羽伏見の戦いで戦死した。幕府にも義理立てがしてあった、とはいえ龍馬の借金600両を返済したり、龍馬の妻お龍を8か月ほど小曾根家で面倒をみている。




小曾根英四郎  店舗11年・1840-1890・明治23年  51歳

 英史郎は勝海舟と海軍伝習所で同窓であった。いろは丸の衝突の際に乗船していて紀州藩との交渉の便宜をはかった。龍馬暗殺のあとには岩崎弥太郎が重用されて海援隊の実権が移っていった。薩長閥の政治にも愛想をつかして遊郭に浸って酒浸りの晩年をすごす。



 美人の豪商 大浦慶  文政11年・1829-1884・明治17年

 長崎の油商人の娘として生まれる。大火で損害を受けてたが、日本茶貿易を先駆けて企て成功した。困窮する龍馬たちのような脱藩浪士に金銭的な支援をしたりパトロンとして何かと面倒をみた。開国して他港が発展していくと長崎は衰退していく。元勲たちは、もう過去のことと振り向きもしなかった。あさはかだったと後悔したという。明治になり、たばこ貿易詐欺の被害者になり、3000両もの負債を死ぬまでに返して完済した。死ぬ間際に茶輸出の功績を認められて功労金20円を賜る。

   2018-2-18








   林勇蔵 と 吉富簡一

 長州藩は、ペリ−来航以来、外圧に対処するため、その危機をアピールし、それを受けとめた村落支配者=豪農商層が、みずからの危機意識のもとで、その郷土防衛のために農兵隊を積極的に組織し、武装化した。一般農民もまたそれに応じて献金をし、農兵として参加する。

 わずか80人余で挙兵した高杉晋作が巧山寺挙兵に成功したのは長州の庄屋たちの支援があったからです。初めは、奇兵隊すら勝利の見込み無しと日和見をきめていました。
 高杉の“正義”派が、この諸隊や農兵隊を基盤にして、一般農民層の支持をえながら“俗論”派戦に対して勝利を勝ち取ることができた。 挙兵に先立って、吉敷郡矢原村の山口宰判大庄屋吉富藤兵衛のもとにひそかに使を派した高杉は、挙兵を打明け、その軍資金の提供を吉富簡一に求めた。
 林勇蔵や吉富が資金や兵を提供してくれたことにより、初期の困難を克服してク−デタ−を晋作は成功させる。



林勇蔵 1813-1899

 豪農吉富家に生まれて、庄屋林文左衛門の養子となる。天保12年(1841)上中郷庄屋、安政2年(1855)小郡宰判大庄屋となる。巧山寺挙兵のとき金銭的に支援して勤王大庄屋とよばれた。明治になり地元の治水工事や地租改正に活躍した。



 宰判とは長州藩で郡にあたるような広域の村々を代官が治める行政区域である。





吉富簡一 1838-1914

 周防郡の庄屋に生まれ井上門多とは幼なじみである。林勇蔵とは親戚。奇兵隊に資金提供するほかに、諸隊・鴻城軍を組織し井上を総裁にすえる。維新後は山口県政の大立者として、農民運動や自由民権運動には抑えるような行動をとる。

 吉富は興味を惹かれる人物である。苦境の高杉晋作を助けて、弾圧で押しつぶされそうになっていた正義派を勝利に結びつけ藩論を変えさせた。これから薩長の討幕運動が始まり明治となる。 明治2−3年に諸隊の脱退騒動が起きる。長州藩は結果的には諸隊を用無しとして解散させる。切り捨てられた処遇に不満な兵士は反乱を起こす。吉富はその意をくむことなく木戸と鎮圧をする。明治6年の地租改定で現金で納税する制度に変更になった。この際に、吉富は米を相場より安く農民より買受けて、大阪に高く売り差額を手に入れ巨額の利益を得た。 前原一誠はこのような農民や兵士の状況を放置する新政府に対して乱を起こすことになった。

 小生は、庄屋と言えば、村の貧しい成績の良い青年を学資を出して学ばせ、まだ村の篤志家の良いイメ−ジを持つが、地主というと小作から巻き上げる悪い印象しか持たない。 その二つを持つのが吉富ではないかと思う。 幕末から敗戦まで続く歴史を象徴する人物のようで興味深い。吉富は幕末では幕藩体制の矛盾を背負わされた庄屋で、それゆえに支援し変革をさせ、明治となり、地主層と農民層の対立では彼が地主側に立ち、庄屋・地主の置かれた歴史的な位置に順応し生きた人物である。彼の心中には矛盾はないのでしょう。地主・庄屋の歴史的・経済的な位置が維新を起こし明治の治世をささえた。その使命を成り立たせた地主の状況が時代を経て変化したことにより、結果として先の敗戦に至り、農地改革で使命を終えたというべきか。


   2018-4-13






     周布政之助・兼翼(かねすけ)



1823-1864

 略歴

 周布吉左衛門兼正(219石)の5男として生まれる。生後6か月で相続。藩校で学んだ。 若いころは来原良蔵や松島剛蔵らと結社を作り政治改革を論じる。1847年に椋梨藤太の添え役として抜擢される。そのことは、彼は天保の藩政財政改革を行った村田清風の影響を受けていたが、藩政の主導権争いで坪井九右衛門派の椋梨(後の俗論派)との連立政権を意味していたという。 1853年政務役筆頭となり、財政改革、殖産興業、軍制改革に尽力。桂小五郎、高杉晋作、松陰の門下生を中枢に登用した。
 1858年には、松陰が老中の間部詮勝を暗殺する許可を求めたため牢にいれる。1862年には藩論が長井雅楽の開国・公武合体策の航海遠略策になることを同意。彼は久坂玄瑞に説得されて、攘夷を唱えたが、下関戦争で穏便に講和したことから、俗論・正義派の両者から責められる。高杉晋作と共に暴発を抑えようとしたが失敗。禁門の変が起こる。1864年9月26日、第1次長州征伐が起ころうとしていたころ庄屋吉富簡一宅でひっそりと切腹した。責任を感じてと言われるが、俗論派から斬首されたかもしれない。
 周布正之助が切腹して12月16日・三か月後には高杉の功山寺挙兵が起きるので彼は本当に惜しまれる存在です。

 長州が明治の陸軍を主導して先の敗戦まで至る。彼は奇兵隊の創設に関わり、後まで大きく歴史に影響を与える。奇兵隊では読書が重視されて軍事訓練だけでなく、志の育成にも重きが置かれた。しかし明治以降の徴兵された兵士にはその伝統は受け継がれなかった。

 文久三年二月、麻田公輔(周布政之助)は、外圧の危機に対処するためには民衆の武装化がなによりも必要であることを、小銃局の設置に関連させてつぎのように述べていた。

 「小銃局が追々設立されるよし、大変喜んでおります。 器械が乏しくては、戦わない以前に外夷のあなどりを受けますので、丹誠を尽して器械の製造を一途にはかり、防長二州中にこと足りるようにしたいものです。……
 国中の要地要津に大小銃が充満すれば、一先ず外夷を圧倒する手立てとは相成るでしょう。
 人民は五、六ヵ月執業させれば一個の士とはなりますけれども、器械を与えなければ執業の目途も立ちません。
 ましてや竹槍をもたせ、死生の間に立たせて働かすようでは、上はお慈悲に欠けるというものです。
 何とぞ製造局において器械を十分準備し、国中の人民およそ七十万のうち三十五万は婦女、十七万五千は老幼の男子、残り十七万五千の壮年の男子へ引当てる大砲・小銃を整えておくことが、この上なく大切なことと存じます。
 外夷には竹槍ではなく、大砲や小銃などの器械で武装させよ」(田中彰著の幕末の長州より)

 敗戦前の本土決戦では小銃さえ満足に配布できずに、竹やりで外夷に立ち向かうことを平気で思っていた参謀本部がいたことは、幕末以来の周布の心を受け継いできていない長州陸軍閥の悪いところでしょう。
 桂小五郎や高杉晋作、伊藤俊輔などをかばいかくまって維新に貢献させた周布の業績は多大なものです。彼が生きていれば違った歴史に変わったでしょう。

   2018-4-30



  筑前勤皇党
       





   西郷隆盛   磯田道史さんによる



 1828-1877 西郷肖像画 床次正精作


 磯田さんの「素顔の西郷隆盛」を読みました。爺のお気に入りの歴史学者です。 倉に眠っているような古文書を読みまくり、そこから一次資料によって歴史をくみ上げています。 
  明治時代の候文ですら読めない小生にとっては、あの草書体の古文書なんて想像もつきません。 せっかく高校で古文を習うのだから家の蔵にある先祖の残した文書を分かるような教育があっても良いのではと思います。自宅に蔵のあるような育ちではありませんが。  歴史好きの田舎爺さんですが、英語もろくにできないので、欧米の歴史にも問題外であり、自分の国のものですら古資料を読むことができません。ウイキとか人が書いた本とかの受け売りをするばかりです。





 西郷無くして維新を迎えることはできません。 対幕戦争の軍議で新政府会議のなかでも、西郷の出席なくしては何も決められませんでした。 他に、

  西郷無くしては出来なかった事

1. 長州をつぶすことを防ぎ、薩長同盟
2. 大政奉還後の王政復古のク−デタ−
3. 慶喜の助命
4. 武力討幕、 討幕の大義を得るための謀略、 鳥羽伏見の戦い勝利
5. 戊辰戦争、 江戸城無血開城、東北戦争へ参陣
6. 廃藩置県、府県の統廃合(3府72県)
7. 陸軍省・海軍省の設置
8. 学制の制定
9. 国立銀行条例公布
10. 太陽暦の採用
11. 徴兵令の布告
12. キリスト教禁制の高札の撤廃
13. 地租改正条例の布告

 西欧岩倉使節団が正当政府で西郷らの在日政府を留守政府と今では言っていますが、留守政府が決めた徴兵令や地租改正など大きな枠組みは西郷が決めています。
とても留守政府がやることではありません。

 維新の功業とは鎌倉幕府以来の武士による政治の枠組みを終らせた、明治・新政府による廃藩置県、徴兵令、廃刀令、最後の武士による反乱・西南戦争(西郷の死をもって)にとどめを刺すことによる完結です。 それを為すには命を惜しまぬ西郷の武力討幕の方針を持ってしかなし得ませんでした。

 大河ドラマ「西郷どん」で王政復古のところまでスト−リ−がすすみました。 江戸薩摩屋敷焼き討ちを誘発させるための謀略に相楽総三、伊牟田尚平、益満休之助を派遣して放火・略奪・暴行して挑発させます。西郷のキャラ変だと巷で騒ぐ動きも見られます。「戦闘に成ったら策謀はしなければならないが、そのためには普段はまともな道を歩むべきだ」正しい目的を踏まえれば、戦時は汚いことをしてOKという西郷の思想です。西郷の陰のある横顔がなければ維新は起きなかったでしょう。汚いことをなすためには普段は公正・まっとうな人生を送らなければならないことを忘れてはいけない。

 年表を見てみると二回目の遠島・沖永良部で死にかけて、外交の能力を買われて再び許されて京都工作に当たってからわずか四年で明治になる。想像以上に短い期間のことであったことが分かる。


   西郷隆盛関連年表

1828・文政10  下加治屋町で誕生
1847・弘化4  郷中二才頭となる 19歳
1850・嘉永3   お由良騒動で赤山靱負(あかやまゆきえ)が切腹
1851・嘉永4  島津斉彬が藩主となる 23歳
1853・嘉永6  ペリ−来航
1854・安政元年  江戸詰めとなる  26歳
1855・安政2  橋本佐内と政治活動
1856・安政3  篤姫が将軍輿入れ、 一橋派として活動
1858・安政5  日米修好通商条約、斉彬死亡、安政の大獄 月照と心中 30歳
1859・安政6  奄美大島に潜居、愛加那と結婚
1861・文久元年  召喚状来る
1862・文久2  久光へ「地ゴロ」発言、沖永良部島へ遠島  34歳
1864・元治元年 公武周旋と京都工作のため召喚、軍賦役となる。禁門の変で長州撃退、第1次長州征討を収拾、36歳
1865・元治2年  糸子と再婚  37歳
1866・慶応2  薩長同盟成る、第2次長州征討、功明天皇崩御
1867・慶応3  薩土盟約、 伊牟田尚平と益満休之助を江戸破壊工作に派遣、大政奉還、王政復古、
1868・慶応4 鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城、上野戦争、北陸戦線に出馬、弟・吉二郎戦死、40歳
1869・明治2  函館戦争終結、栄典禄2000石と位階を返上、薩摩藩藩政改革にあたる
1871・明治4  政府改革案を持って上京、常備兵5000人を率いて再上京、廃藩置県、留守政府始まる
1873・明治6  朝鮮問題の政変で下野、 45歳
1876・明治9  廃刀令
1877・明治10 西南戦争で自決  49歳


   2018-9-19






   大久保利通  倉山満さんによる





      徳間書店刊



 大久保利通が日本歴史上最高のヒ−ロ−だったのかどうかは、ともかく明治の世が出来ていくのは、彼なしには有りえなかったでしょう。 著者倉山満さんの本は信長のものとこれで2冊目です。 最近はユ−チュ−ブで彼の出ている番組をよく見ています。 独特のキャラ設定で彼の著書の信頼を高めるのかそうでないかは受け止める側の感性によるでしょう。

 倉山さんは今までにない発想を知らしめてくれるので、おもしろい。 「江戸時代には9条のしばりがあった」「信長は最大限それまでの権威を利用した」「西郷と大久保はBL・ボ−イズラブの関係であった」など今までモヤモヤしていたものをストンと分からせてくれるものがあります。

 彼は主人公を描く手法として、それまでの歴史を資料を、彼が読み解いた彼なりの独自の見解を基にした歴史を前段に述べることにより構成します。 大久保を表現するにあたり、ラスボスにあたる徳川慶喜の大きさを描きます。 大久保は終始に徳川慶喜に圧倒されていて、鳥羽伏見の戦いで「錦の御旗」で逆転するまで押され続けていた。慶喜がそこまでのス−パ−な存在だとは思っていませんでした。 西郷を殺してまで大久保がやり遂げたかったことは、強い政府を作り,中央集権で全国から税をあつめ、殖産興業・富国強兵である。立憲主義は死んでから伊藤博文により実現できた。イギリスのような民権政体を大久保は心底望んでいたという。西郷が死んだすぐあと、1878・明治11年5月14日に暗殺された。

 今だ持って人を殺してはいけないという、最低限のモラル・ル−ルをまだ、日本では確立してはいません。主義の違いの優劣などは数十年もすれば逆転することなど明らかであるのに。



   2019-8-20








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