速魚の船中発策ブログ まとめ









御手洗

辻将曹・維岳

神機隊と芸州諸隊

神機隊本陣を訪ねて

八条原城

広島城





































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































御手洗

辻将曹・維岳

神機隊と芸州諸隊

神機隊本陣を訪ねて

八条原城

広島城






















































































































































































































































































幕末芸州藩 まとめ





    御手洗(みたらい)


 ヨットにとっても天然の良港である御手洗にいきました。





 







江戸時代の高灯篭

 帆船の時代に来島海峡や鼻栗瀬戸などの潮待、諸風を防ぐ地理的条件を備えたところから天然の良港として栄えた。
 地名の由来は神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗った伝説や菅原道真が太宰府に左遷されたときに手を洗ったという伝承から名がついたといわれています。
文政二年・一八一九年には中国第一の港と自負するほど発展した。



菅公手洗いの井戸

 帆船から蒸気船の時代になり繁栄していた御手洗は衰えて江戸時代の街並みが残った。



町並み保存地区

船乗りが集まれば芸州藩お墨付きの施設も繁栄する。4軒の茶屋があり、「おちょろ船」といって沖待ちしている船に出向いて営業することもあった。



若胡子屋 広島藩から免許をもらったお茶屋 100人の遊女がいたという





一夜の契りでも遊女にお歯黒をつけさせて女房気取りで結ぶのは男の甲斐性であった。これには莫大なお金がかかりました。
 ある日花魁がお歯黒をつけにくくて癇癪をおこして、そばにいた禿(カムロ)の口に投げつけて殺してしまいました。その亡霊が毎夜現をれて花魁を苦しめた。花魁は四国の遍路をしてつぐなったという。



お歯黒事件の壁 お歯黒の手形がにじんでうかびあがるという



船宿 大洲藩



乙女座 これは昭和初期の劇場の復元



満舟寺の石垣 戦国時代の石垣で海賊の施設跡ではないかと言われている
加藤清正の四国攻めの前線基地ともいわれる





船宿 薩摩藩

 1863年に芸州藩は薩摩と密貿易をしていてその拠点港となる。幕末には七卿落ちで滞在した家が残っています。 吉田松陰が長崎にいくときに立ち寄り、薩長芸の討幕同盟がむすばれると大阪での討幕行動の密約といわれる「御手洗条約」がここで交わされる。 



七卿落遺跡



金子邸  ここで密約したという


   2017-12-24







     辻将曹・維岳 
    芸州藩の大政奉還建白書提出、植田乙次郎



 1823-94

 ヨットを広島に置くようになってから1年余になります。その間にカ−プが2度も優勝する。そのおかげで、なじみのスパが感謝セ−ルをして、露天風呂が無料になり、ささやかな恩恵を被っています。広島は小生の数ある第2の故郷の一つとなりつつあります。
 龍馬暗殺に関する雑誌の記事に、大政奉還後に会津・桑名藩が元に戻すべき行動を起こしたと有ります。両藩が作った暗殺者リストの中に龍馬があり、それは残念・不幸にも実行された。薩摩の西郷、大久保、小松はそのことを知り急遽帰国して難をまぬがれた。また、芸州藩のリストに辻将曹と植田乙次郎があげられている。両者とも知らない人物だったので興味を持ちました。芸州藩の大政奉還建議があったのも驚きです。

 辻将曹は明治2年に永世禄400石を賜った。新政府の参与となったが明治3年に政府の職を辞任した後は政府の中枢にすえられることはなかった。そのせいか、彼は世に余り知られていない。
 辻将曹の祖先は、田中吉政に仕えた辻重勝が関ケ原戦いで東軍に属し、石田三成配下の杉江勘兵衛を討ち取っている。田中家が断絶のあとに浅野家に仕えた。 辻将曹は一二〇〇石の家督を継承する。上級武士である。彼は藩内の改革派であったが失敗続きであった。藩主が浅野長訓になった時に、家老・執政として抜擢され藩政改革を行う。

 芸州は関ケ原の後に福島正則が入封する。ほどなく転封されて浅野氏が入った。豊臣政権で五奉行の要職を務めた浅野長政の続きで、外様であるが将軍家とは婚儀を結んでいる。徳川家から信頼されて要所をまかされた芸州藩であるが、長州攻めの先鋒を拒否して、幕府側につくことはなかった。 藩の参政をしていた辻将曹は幕府から目を付けられ謹慎を命じられている。ほどなく許されて彼は第二次長州戦争の和平交渉を勝海舟と行う。後に、辻将曹は勝に周旋の才をほめられている。辻将曹は和議後に起きた討幕の気運に同調して薩長芸の討幕3藩同盟に参加した。

 土佐藩が大政奉還の建白書を提出した翌日には、芸州藩も続いて提出する。土佐藩は幕府を支えるのが目的であるが、芸州のは拒否されれば討幕すればよいとのものだった。 鳥羽伏見の戦いでは薩摩の独断専行・突出として芸州藩は兵を出さなかった。結果的には日和見行動と見なされて、後に参加した土佐や佐賀の後塵をあびることになる。薩長芸の藩閥政治が維新後に起きてもおかしくないほどの芸州藩の位置であった。

 明治23年にもなると明治は落ち着いて見直す気分になったのでしょう。辻将曹は元老院議員に任じられ男爵に叙され華族となる。 彼は薩摩と土佐の意見が対立したときに、土佐の後藤象二郎らをなだめて討幕の方向にまとめた功績があったが、彼は維新後にはきらびやかな役職につくこともなく、困窮する士族の授産事業をすすめた。

   植田乙次郎  1825-1893

 幕末の安芸藩(広島県)藩士。藩主浅野長訓の人材登用により文久3(1863)年武具奉行,野村帯刀,辻将曹(維岳)の藩政改革を助け,元治1(1864)年の第1次長州征討では幕長間の戦争回避工作に当たる。慶応2(1866)年の第2次長州征討では出兵拒否の藩論のもと,長州藩士広沢真臣と長芸不戦協約を結び,その後勘定奉行に昇進。翌3年,藩論が武力討幕論と大政奉還論に分化するにつれ前者を代表,9月山口に赴き薩長芸三藩出兵同盟を結ぶ。10月上洛し,王政復古の計画に参加。帰藩し出兵準備に当たり,世子浅野長勲に従い上洛。翌明治1(1868)年1月錦旗を携えて帰藩し,山陽道の旧幕領の接収に当たった。

2017-11-19








      神機隊と芸州の諸隊


 広島県廿日市に第二次長州征討で焼けた町屋跡の碑があります。 芸州口の戦いで和木を訪ねたことがあり、ここに載せています。

 芸州藩と長州藩の国境は和木近くの小瀬川にある。正確には支藩の岩国藩と芸州藩の境です。ここで四境の役(第2次長州征討)芸州口の戦いの戦端が開かれました。

 芸州藩は第一次長州征討では家老の辻将曹が仲立ちにより、西郷隆盛が岩国藩へ行き藩主と会談し、また長州へ乗り込み長州諸隊の幹部を説得したことにより、まとめたことで実戦が回避された。
 しかし、第二次長州征討では芸州藩は大義の無い戦いであると訴えたが幕府に先鋒を命じられる。老中小笠原長行(おがさわらながみち)はこれに対して家老の辻将曹らを謹慎処分に命じた。それに藩士が激昂し暗殺を計画した。小笠原を呼出し藩主浅野長訓(あさのながみち)が退去と不参戦を通告した。



 廿日市町屋跡  第2次長州征討で炎上

 芸州口の戦いが起こると芸州藩内の戦闘であったので中立を保つが、廿日市町屋の焼失のような被害を受ける。芸州と長州の間では藩外への撤退を長州と交渉をおこなった記録は残っている。2か月に及ぶ戦いで大きな被害を受けた。従来の藩兵だけでは守れないと精鋭部隊が必要だと認識された。


芸州口の戦い・四境の役・第二次長州征討 周防の国の海道・古道一人旅より 詳しい地図があります。

http://www.sakura64.sakura.ne.jp/contents10geishuuguchinotatakai.html

 士庶による神機隊の建白を木原秀三郎は義弟河合三十郎と提出。神機隊が創設された。隊内では身分、地位、格差をもちこまずに学問所などで学ばせる。募兵にあたって高い教養をもった人材を優先した。訓練に英語を取り入れて知識と意欲がなければ適応できなかった。軍律は厳しく違反者には容赦なく切腹を命じた。



 木原秀三郎 檜山村の庄屋出身、勝海舟の海軍塾で学び、芸州藩に登用。



 薩長芸三藩盟約書草稿

 薩長芸軍事同盟で上洛した芸州藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは芸州藩の正規軍は参戦しなかった。 これ以降に芸州藩は戊辰戦争の主導権を失うことになる。よく口にする「薩長土肥」には入れてもらえないことになった。

 神機隊は備中・備後の鎮撫に出動した。京都では芸州藩は鳥羽伏見での戦いで笑いものになっていた。神機隊は関東出兵を決めたが、藩は財政赤字を理由に拒否した。神機隊は自費で出陣する。上野戦争と奥州戦争で先鋒として大きく貢献した。高間省三は敵陣一番乗りで戦死して有名になる。324名で故郷を出たが仙台では、まともに歩ける隊兵は80名程であったという。



 高間省三 1848-1868 藩中きっての文武のエリ−ト、老中小笠原の暗殺を謀る。神機隊の砲隊長、戦前の武勇に優れた軍人の代表として紹介されている。



    芸州藩の諸隊

晴雲隊 1863・文久3年編成、柔述の心得200名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、

同仇隊 1863・文久3年学問所詰め藩士子弟で編成、54名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、諸隊の士官として活躍が多い

一心隊 1864・元治元年八月編成、周辺農町民有志100名、広島城下と周辺警備のため、

遊撃隊 1865・慶応元年春編成、38名、北陸道鎮撫総督の先鋒、

1866・慶応3年 6月 芸州口の戦い(第2次長州征討)

捷神隊(しょうしんたい) 1866・慶応2年8月編成、60名、民兵、神機隊と合併、戦歴不詳

神機隊 1866・慶応2年 9月 藩士と農商民で編成、1200名

1867・慶応3年 9月 薩長芸軍事同盟

1867・慶応3年 10月14日 大政奉還

献力隊 1867・慶応3年10月編成、300名、農商子弟300名、一部は戊辰戦争に従軍、大半は予備隊として待機

衆合隊 1867・慶応3年11月徴募編成、藩士を中心に民間を加えた300名、幹部は参戦、残りは後尾として残る

推誠隊 1867・慶応3年11月編成、草莽有志200名、藩軍事奉行の付属、一部は東北遊撃軍の傘下に、瀬戸内当初警備に

応変隊 1867・慶応3年秋編成、220名,士庶混成、鳥羽伏見120名参戦、北陸道100名、日光会津口と東北遊撃隊に分かれて参戦

新隊 1867・慶応3年秋編成、124名、八幡山方面に参戦、以後各地転戦

1867・慶応3年 12月9日  王政復古

1868・慶応4年 1月27日 鳥羽伏見の戦い

輔正隊 1868・慶応4年1月編成、豪商農の指導で組織200名、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦

奏勇隊 1868・慶応4年1月編成、藩士及び農町民の混成150名、領内治安警備

神速隊 1868・慶応4年2月編成、士農混成100名、戦歴不詳

司箭隊(しせんたい)1868・慶応4年2月編成、士農混成の銃隊、250名。装備旧式、戦歴不詳、

1868・慶応4年 4月11日 江戸城無血開城



   2018-9-14





      神機隊本陣・駐屯地を訪ねて

 
 神機隊の駐屯地を訪ねて東広島市の志和にある西連寺に行きました。 広島からJR山陽線で八本松駅で下車、タクシ−にて1800円の距離です。 路線バスは日に5−6便あり,西条駅より1000円弱です。事前に芸備バスの時刻表を確認しておくとよい。西連寺バス停で下車すぐ前です。



 西連寺 神機隊本陣跡の石碑


 境内には隊員の10基ほどの墓地があります。



 隊員墓地

 薩長芸軍事同盟で上洛した芸州藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは芸州藩の正規軍は参戦しなかった。 これ以降に芸州藩は戊辰戦争の主導権を失うことになる。

 京都で芸州は戦いもせずに笑いものになっていると聞かされて、神機隊は創設されるのである。藩主の積極的な協力も無く、それ以後の戊辰戦争では、自費で神機隊は戦うことになった。上野戦争から仙台入城まで、この度の震災で有名になった浪江や相馬で戦う。先陣を仰せつかって200名の隊員は80名になった厳しい戦いを勝ち抜いた。 

 浄土真宗のお寺でさほど広くは無く、この地特有のあちこちでよく見かける茶色瓦が印象的であった。この地から徒歩で八条原城へ向かう。

    2018-10-30













     八条原城




八条原城(志和神社)と志和盆地の閉塞予想箇所 赤☆5か所


 神機隊の本陣跡・西連寺から徒歩で八条原城跡(志和神社)に向かいました。今夏の集中豪雨の影響を受けて名前を知らない小河川の屈曲部には土嚢が積まれて改修が待たれている場所も見受けられます。 芸備線と山陽線に挟まれた盆地です。この地は駅から徒歩では利用できず、日に5-6便程度のバスしかなく、車が無いと生活は不便でしょう。


 幕末に外国との脅威が意識されると、海沿いの街は脅威を感じていました。幕府による江戸の台場、佐賀藩の長崎外海の砲台、福岡藩の犬鳴御別館、長州藩の勝山御殿などがその対策に設営されました。同様に広島藩は海に近い広島城に不安を覚え、広島より20kmばかり北東にある志和盆地に城を築きました。経済的に恵まれた雄藩にしかできませんでしたが。

 志和盆地は700m級の山に囲まれ、内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川(地点を地図で特定することはできませんでした)を封鎖することによって、志和盆地全体を一大拠点として要塞化できることや、この地で8000石が収穫できて自給体制に不安が少ないことからこの地が選ばれる。実際に幕末には神機隊から残存部隊が封鎖個所を警備する。

 藩主邸宅、政事堂、米蔵、練兵場、文武塾が作られた。明治2年12月になり明治が安定すると工事は中止される。



 志和神社(八条原城)



 八条原城跡 石碑と碑文



 図面



 この麓にあり



   2018-11-4
 





      広島城



   毛利氏は関が原で負けて30万石余りで萩に押し込まれるまでは大国でした。 吉田郡山城に本拠を構えていましたが、内陸の山間部盆地では施政に不便を感じて広島に城を築城して移転します。
 幕末の長州藩の意識がこちらには強すぎて、広島城を毛利氏がつくったとは思えません。 実際に見てみますと茶色の板壁が、しっくいの白壁でできたお城とは印象が違い、エレガントに感じます。 原爆で天守閣は全壊してしまいました。現在はコンクリ−トで再建したものです。 二の丸は木造で再建されています。
   






  2の丸遠景


  


  2の丸 入口


  


  天守閣

  城内にある護国神社で、最近は大変に珍しい白無垢の美しい花嫁さんをみかけました。 また本丸には日清戦争のときに明治天皇がおられた大本営跡や師団本部の跡もあります。

  


  城内護国神社での白無垢花嫁さん


    2016-9-28