速魚の船中発策ブログ まとめ




村上水軍・海賊衆

鹿島城と得居通幸

岩城城

笠岡城

人名政

因島散歩

真鍋島

甘崎城

城岩新城

東山城

村上水軍

青影城

村上来島海賊

塩飽本島・笠島













































海賊衆・村上水軍 まとめ





 瀬戸内にある村上水軍やその城をまとめてみました。


    村上水軍・海賊衆

  村上水軍博物館と因島村上水軍城・博物館に行ってきました。 村上水軍はひとつであると誤解していましたが、熊島村上、来島村上、因島村上と3つに分けられます。
 下図のように芸予諸島は広く縦長なので、瀬戸内を抑えるためには、地理的にも3つに分かれたのでしょう。



  
   


  村上氏は信濃の村上郡からとった名称のようですが、古くは諸説あり判明しません。
村上義胤に3人の息子がおり、長男義顕(雅房)を能島に、二男顕忠(吉房)を因島に、三男顕長(吉豊)を来島に置いた。

 戦国時代になって、因島は毛利につき、来島は河野氏の直属の水軍になり、熊島村上武吉は武勇高く独立した存在であった。毛利元就の厳島の合戦に加わり陶晴賢軍を破る。
その後は毛利から離れる動きがあったが、1574年毛利に降った。 信長との木津川口海戦で息子の村上元吉が指揮して勝利した。 来島村上通総は秀吉に降り、来島姓を名乗る。
 熊島村上親子は秀吉に降った来島村上を攻撃したことを秀吉に恨まれて天下統一後に退去を命ぜられた。天正16年には海賊禁止令が発せられ、海賊特権はなくなる。


       2016-7-30









    鹿島城と得居通幸



 今治をヨットで訪ねた折には、来島城には残念にも行くことができませんでした。
松山堀江にもやいを取ることになり、鹿島城に行ってきました。

 鹿島城で活躍した得居通幸・とくいみちゆき・1557-1594の時代を概観してみよう。村上海賊の3つのうち村上来島海賊は古くから河野氏に属していたが、秀吉の中国攻めの際に秀吉の調略によりそれに従った。それで、河野氏は毛利氏と共に来島村上氏を攻めて、村上通総は来島城を脱して秀吉のもとに逃れた。兄であったが庶流ゆえに嫡男の通総に譲った得居通幸はこの鹿島城に籠り守りぬいた。毛利氏と秀吉が和議を結んだことから容認される。秀吉の四国攻めでは先方を果たす。朝鮮の役で死亡する。




 村上水軍の戦いの図





 鹿島城跡 現伊予北条市沖合






 鹿島城 案内






 来島通総 肖像



 わずかに石垣が残るところがあるだけです。主郭も2の段も小さなものです。でも急峻な崖で成るこの城は落とすのに困難であろうと思われます。井戸が必ずあるはずですが、見当たりませんでした。こんな小島で頑張った得居氏はたいしたものです。

 今は野生の鹿をまじかに目にすることができるのみです。




 2の段  鹿がうろついています





 残っている石垣か?



島の歴史も古く神功皇后がこの島に立ち寄り眺めた岩や髪を洗ったという岩の伝説が残っています。




 神功皇后の御野見立ちの巌 昇って見ると素晴らしい瀬戸内海が



       2016-12-8






    亀山城・岩城島






 



 岩城八幡宮鳥居と階段


 愛媛県上島町岩城島に亀山城はあります。 明徳3年(1392年)村上修亮敬吉により築かれたといわれる。村上海賊の城というよりは砦である。本廓には現在は岩城八幡宮があり南北にある2つの廓とで構成されていた。
現在は陸側から神社に至る階段が設置されているが、昔は城の周りを登っていく登城路で本廓に達したと思われる。急な崖沿いの道で海側からの攻撃は難しい。城の鼻には船をつなぐ杭穴がのこっているという。潮が高く見えず。 また岩城古城・支城との間には船隠しがあったというが、現在は埋め立てれられて陸地になっている。岩城島と赤穂根島との狭い水路にある。近くの岸に岩城古城という支城があるというが小さいもので家も立っていて確かめることができなかった。教育委員会で聞いてみたが明確にはなりませんでした。









杭穴・ピット





 本廓より対岸の赤穂根島を望む







登城路



 岩城島には航行を監視する村上海賊の城が岬の鼻や見通しのよい小山にあったようだが、表示された看板が無いのか見つけられませんでした。


    2017-12-29








      笠岡城   


  
 瀬戸内にある「お城」によくある例だが、塩田や干拓に城の石材などが利用されてしまった。この例のひとつが笠岡城である。 笠岡城の名称も使われずに「古城山」としている。

 そこへ行くには、大きなス−パ−の裏にある山道を登っていく。 笠岡城跡・古城山公園をめざす。 ふもとに関鳧翁(せきふおう)の墓があった。  墓に書かれてある名すら分からないので、知らべてみる。 幕末の漢方医・歌人・国学者である。 彼の歌日記にはペリ−来航のようすが詳しく述べられている。 隣の福山藩が幕末の譜代の大老阿部正弘の地であることから、こんな田舎にもペリ−来航の情報が入手できたのかもしれません。

 笠岡城は1556-1558に能島村上水軍の一族、村上隆重が築城。関ケ原合戦後に家康の所領となる。1616池田備中守が入る。1619に備中松山城に移り廃城となる。



  村上水軍・海賊衆

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  古城山・笠岡城公園  案内図





 関鳧翁(せきふおう)・関政方(せきまさみち)1786-1861の墓   






 このような道が出来ていて車でも行ける



 


 石垣が見えた






  公演は平らに聖地されていて、 城との関係は不明  本丸と思われるが。





  下を眺めて見る


   2020-7-28






     人名政 (にんみょうせい)



 ヨットで与島を再訪した。そこは今では瀬戸大橋で架橋され本四がつながっています。その橋げたのような小さな与島です。徒歩で一周する。「人名(にんみょう)」の石碑を見つけました。それを説明するものはありません。「人名」とは何でしょう。







 与島人名の碑




 塩飽列島  赤点は「人名政」のあった浦々




 塩飽勤番所



 塩飽諸島は本島、広島、与島、手島、佐柳島、高見島、牛島、櫃石島 、沙耶島、瀬居島などからなる。現在は埋め立てられて坂出の一部になっている島もある。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。




 年寄の墓

 耕地面積は狭く米作は少数で麦作であった。 また、付近の漁業権も許されたが、漁業に従事するものは少なかった。 川村瑞賢の西回り航路(1672年)の開拓により塩飽衆は一手にその輸送を担い繁盛したが、「菜の花沖」の高田屋嘉平のような廻船問屋に押されて廻船業は衰退していった。しかし船大工の技術が優秀であったのでその後は大工業・船乗り渡世になっていく。優れた操船能力は維持されて、幕末には咸臨丸の船員の大半を占める。「人名政」は明治まで続いた。塩飽の島々は次第に忘れられて過疎の島になる。

 テレビの鑑定番組で、旧家の倉庫に退蔵されていたものが、「若冲」の鶏の絵であったのが注目された。往時の繁栄がしのばれる。


    2018-1-10






  
      因島散歩
 




  因島マップ



 因島は本四連絡橋・しまなみ海道のなかにある向島と生口島につながる島です。造船業が盛んな島でもある。 以前に因島水軍城へ行きました。今回は注文したヨットの部品の受け取りに弓削海の駅より因島へ行く。

 往きは弓削より因島土生まで今治発の連絡船に乗る。土生で下船して、弓削にはホ-ムセンタ−がないので因島モ−ルまでタクシ−で行く。そこで工具等を購入した。 ここより土生発三原行の別会社の船便があり、乗船して途中の重井で下船した。 ここから因島マリ−ナへは徒歩になる。途中の民家は独特な作りで左官のワザなのか土蔵風の塗りこめの窓が珍しくこの土地だけのものなのかと思われる。






 重井の民家その1






 重井の民家その2

 

 丘を越えて次の入り江まで歩くのだが、途中の丘上には除虫菊畑があるようで、その入り口の看板があった。因島ではキンチョ−の島なのであろうか。 丘を下ったところにコ−プの店があり、弁当と水を購入。島の中でこの種の店をみつけるのは珍しいので、それなりの人口があるのでしょう。 ほどなく青木城跡の案内板を見つけた。 すぐ近くに因島マリ−ナがあり部品を引き取り一刻も早くそれをエンジンに取りつけて出港したいので城跡へ行くのは断念した。










 青木城跡 海抜50.6m



 重井まで来た道を帰り、土生までの乗船時間が長いので、バス便にして土生まで帰った。 島の常だが交通の乗り換え待ち時間が長く、今度は弓削の船便を待つ間に、船具屋に立ち寄りバルブ関連の用品を買う。 その向えにホテルがあり、そこは村上水軍の長崎城跡です。 ちょうど昼時でランチをやっていて2800円也とのこと。 部品代にお金が掛かったおり、分不相応と辞退しました。









長崎城  海から眺める






 長崎城

  海賊城は見張りが重要で、船舶の動静を常に監視する必要がある。従い、水道・水路の脇には城跡があることになる、今回は見ることができなかったが、荒神山城、島前城、山伏山城、天神山城など因島には多く城・砦があるようです。弓削に立ち寄った際には自転車で見て歩きたいと思っております。



    2019-7-24






     真鍋島
 

 白石島から高速船に乗り真鍋島へ行ってきた。 真鍋城とヨット停泊地を探る目的であった。


 真鍋島・本浦港の桟橋で船を降りて、海岸沿いの道を城山方面に向かう。 途中で同じエプロンをしたお地蔵さんを数か所で見かけた。信仰の厚い島民がいるようだ。静かな佇まいで車や人に会うことは少ない。 普通船だと岩坪港に寄港する便もある。







  笠岡諸島  白石島から真鍋島航路  (笠岡−高島−白石島−北木島−真鍋島)










 真鍋島案内図







 真鍋島本浦港 高速連絡船乗り場  中央緑の桟橋





  道端のお地蔵さん





 岩坪港 普通連絡船赤桟橋



 都会からの移住者が建てられたのか、デッキのあるシャレタ家の住民に城山への道を尋ねる。この横のみちを登って行けると教えてもらう。

 この島を支配した藤原氏を由来とする、また。島の名前にもなった真鍋氏のお墓だという五輪の塔を見る。


 真鍋島移住案内サイト
 https://manabeshima.life/






  五輪の石塔群  真鍋氏の墓と言われる  



 そこから道なりの道を登っていくと畑のあぜ道に迷い込み、帰れるかと焦ってしまう。  何とか引き返しておばあさんに会い、道を教えてもらいました。 しばらくして案内板がある。





 城山案内板



 さらに登っていくと、遊歩道は草に覆われて見分けがつかない。 連絡船切符売り場に用意されていた杖を借りていたので、小雨用に持っていたかさと杖を持ち両手で笹をかきわけ?き分け分け前進する。やっとの思いで着いたところは名も知れぬお墓だった。そこも道を間違えたらしい。  城山展望台(備中城山城)断念してもどる羽目になった。 そこから遊歩道を南下して備中真鍋城も訪ねるつもりであったが、これも行くことができなかった。

 後で連絡船の関係者にこのことを話して尋ねたところ、年に1回ほど遊歩道の草刈りを実施するが、そのあと1か月くらいで草が生えてきて元の木阿弥になるのだそうだ。






 草に隠れた遊歩道



 本浦の連絡船乗船所にもどり帰りの便まで1時間ほどあったので近くの街並みを見学した。 真鍋氏の本宅は空き地になっていて立て札があるのみであると聞き、分家の真鍋宅を訪れる。 ホルトノキが軒先にあります。





 真鍋邸 国指定登録文化財  現在は居住していない






 ホルトノキ 

  ホルトノキは、熱帯〜亜熱帯性の常緑高木で、暖かい海岸沿いに自生しています。
ホルトとはポルトガルの意味で、昔、果実の形がオリーブに似ているために誤認され、名付けられた呼び名という説があります。 





  街並み







       甘崎城     

         日本のモンサンミシェル

  
  大三島の東端の古城島というまことに小さい島に甘崎城はあります。 梅雨の雨のなかでその対岸に行き、やっとさがした地元の人に所在確認をすることができました。

 昔は島は石垣で囲まれていたのだそうです。 明治になって塩田が盛んになり、それにその石を使ってしまった。 小さい島ゆえに由来をしらなければ過ぎてしましそうです。大三島の海の駅で知り合った地元ヨットマンに聞いてもあのあたりに確か小さい島があったなあ..といったところです。

 アマは海人(海武士)をサキは防人の意。 アマを取り締まる役目から海上交通の役割になり、村上水軍の拠点となる。秀吉が覇権を握ると藤堂高虎が改修して属城となった。1608年高虎の移封により廃城となる。



  


  古城島 甘崎城




  


  大潮のとき陸続きとなる


  


  案内板


  近くの陸の駅から観光船で見られる模様。 ヨットでは水深が浅くて行くことができません。 沖を航行したとき海側より見ることができました。

 日本のモンサンミシェルであるのにもったいない遺産です。史実に照らして復元してほしいものです。


       2016-8-





      岩城新城   甘崎城の支城


  甘崎城と岩城新城とで鼻栗瀬戸へ向かう4つの水路を抑えられます。

 1大三島と生地島の水路

 2. 岩城島と生口島の水路

 3. 岩城島と赤羽根島の水路

 4. 津波島と伯方島の水路

 村上海賊の砦は要所に多く存在しますがそれらのひとつです。

  藤堂高虎が甘崎城を改造したのだが、ここをそうしたという云われは残っていない。この岩城島の反対岸には亀山城がある。







 岩城新城  岬の鼻のようなところには城跡が多い




 岩城新城から甘崎城を望む




    2018-1-3







  東山城  塩飽本島笠島

           塩飽海賊の城

  
  塩飽海賊の本拠地笠島に東山城がありました。 ここから通行する船を見張って通行料を稼いでいたことでしょう。 支払いの無い船は笠島に置いていた船で急襲して積荷もろとも皆殺しにしたということです。

 海賊というと、最近のソマリア海賊は人質をとって身代金を保険会社からせしめるものになりましたが、カリブの海賊のように襲って積荷を奪うスタイルがイメ−ジとしてもっています。

 日本の海賊は1割ほどの代金をとって支払えば水先案内もしてもらえるスタイルで、カリブのイメ−ジとは違います。いってみるならば、損害保険会社のようなものです。 耕地の少ない島ではそのような生業が必然的に起こったのでしょう。

 本島の北東端にあり、高さ40m、見張り台跡も残っているというが確認できませんでした。天正の頃には讃岐天霧城主香川氏の甥、福田又十郎が塩飽を領して居城を築いたが、長曾我部との戦いに敗れて落城した。

 






  空掘あと




  


  土塁あと






  


  ほとんど訪れる人が無く、笠島の街並み保存地区を見たあとに、フェリ−の出る泊港に帰る際に山に登り、遊歩道としての設備がありますので、訪れたらどうでしょう。


      2016-8-15








    村上水軍・海賊衆
                     


      熊島城  熊島村上水軍博物館  

  
  宮窪の瀬戸は大島と伯方島の間の狭い水路・瀬戸で10ノットにのぼる潮流があります。
現在の海図を眺めても暗礁がところどころにあり、とてもそこにあった熊島城にはヨットでは接近できません。 モ−タ−ボ−トのない昔では難攻不落のお城であったでしょう。 でもサイズ的には大きなものではありません。

  


  熊島水軍城

  近くの大島に村上水軍博物館があります。大三島宮浦から今治行きの急行バスに乗って島内バスに乗り換えて行ってきました。


  


  村上水軍博物館


  予約をすると博物館近くから熊島に上陸する観光船があります。通常は潮流体験のようです。

 熊島村上水軍は長男が相続しただけあって最大の海賊衆であった。 毛利氏の盛況の契機となった厳島の戦いで大きな貢献をした。 また、信長との、石山本願寺に兵糧を運ぶ、木津川口の海戦で、毛利に与して勝利しました。 しかし 秀吉に疎まれて追放された。
  



  


  雨の熊島 向こうにしまなみ海道の伯方大島橋が見える



  


 伯方島に向かうフェリ−から見た 熊島



         2016-8-4










     青影城  因島村上水軍城(史料館)   

  

  弓削島から因島土生に高速船で渡り、そこらバスにて因島村上水軍城に行きました。
 いかにもお城のような作りですが、城を模した博物館で元は家老の屋敷があったところ、ふもとにはお寺があり村上水軍の菩提寺で墓地があります。

  


 因島村上水軍城・史料館


  
   


  村上水軍の墓地


  本当のお城は青影城といい、ここで船を見張り、現在は陸地ですが過去には海が入りこみ船隠しになっていて、片刈城の指示のもと出陣したとの館員の説明を聞きました。



  


  中央台地状にあった青影城


 村上吉充は因島村上氏の6代当主で、父の時代から毛利氏に近い立場であり、厳島の戦いで加勢して大いに毛利氏に貢献した。小早川水軍と共に大友軍と戦い、信長との木津川口の海戦で勝利した。関ケ原で毛利が30万石に縮封されたので1800石(2800石?)になってしまった。


   


 
    村上吉充 第6代因島村上当主



     2016-8-9







      村上来島海賊



村上海賊3氏族のうちこの来島に城を構えて割拠したのが来島村上氏です。早くから河野氏に臣従した。秀吉の中国攻めの際に調略を受け入れて信長に従う。これにより本能寺の変のあと、秀吉の大返しの時に、毛利氏は追いかけようにも兵糧弾薬が不足しできなかったといわれている。背後で来島村上氏の活躍があった。



村上3氏族で上図のように瀬戸内のすべてを押さえられます




 来島城




ヨットから見た 来島城跡



  来島村上氏の統領について


村上通康 1519-1567
 河野家の家臣であり来島水軍の総帥。1541年大山祇神社を攻めた大内水軍を撃退させた。1555年厳島の戦いで毛利氏への援軍として勝利する。
 ここで述べた甘崎城主として家臣の村上吉継がおり、通康の死後ですが、1576年に信長との戦いで毛利氏側として第1次木津川の戦いに参戦。

来島通総 1561-1597
 村上通康の4男として誕生、7歳で家督を継ぐ。1582年に豊臣秀吉に寝返ったため、熊島村上、因島村上、毛利、河野氏に攻められたので、秀吉の元に身を寄せる。秀吉と毛利の和睦後旧領にもどった、来島姓を名乗る。秀吉の四国攻めで伊予風早郡に14000石を得る。慶長の役のときに朝鮮で戦死する。



今回は今治の停泊が1泊しかできなかったので、後日に来島にはいってみたいと思っています。厳島の戦い

   2016-11-8





   塩飽本島・笠島

       塩飽海賊の本拠地




  塩飽海賊の本拠地本島は瀬戸大橋のすぐ近くの島です。 瀬戸内海を航行する船をここから監視できる絶好の位置にあります。 地図をごらんになればお分かりになると分かりますが狭くなっていてここを抜けなければ東西へは航行できません。

 地元セーラーでもあまり行ったことがなさそうで、情報不足で、まず丸亀よりフェリ−にて事前偵察に行ってきました。 フェリ−を降りたところにある観光案内所でヨットを泊められるかを確認。 瀬戸内のフェスティバル期間中でなければ可能とのことでした。 そこから徒歩で笠島地区に行ってきました。 ここにはポンツ−ンがあり、ビジタ−は1泊1000円で係留できます。




        笠島 ビジターバ−ス



 今度はヨットで笠島に訪問しました。瀬戸内での係留はポンツ−ンが一番です。2-3mの潮位がありヨットとカキとの接触を嫌うためです。
 この笠島への航行にはすぐ北側にある向島との間は水深が浅いので本島に沿って笠島に入港する必要があります。爺爺も危うくそちらに行きそうになり水深計の警報音が鳴り響きました。

 笠島は塩飽海賊の本拠地で街並み保存地区であり、大きくはないですが落ち着いた街並みがご覧になれます。宣伝が足りないのでしょう、訪れる人も少なく穴場的存在です。

       笠島 街並み保存地区
 


 古くから海上交通にかかわりましたが、特に信長・秀吉・家康と関係を持ってきました。徳川幕藩体制でも珍しく、この塩飽地区は人名((じんみょう)(650名)という自治制が認められていました。本島に塩飽勤番所を設け代官の派遣ではなく選挙で選ばれた年寄・有力者が交代でここに勤務して自治行政をおこなった。公儀御用と引き換えに税も免除された。



         塩飽勤番所



 幕末を向え、咸臨丸の渡米の際には水夫として37名が乗船勤務した。 塩飽の弁財船で鍛えた船大工の技術で明治以降は宮大工として活躍。 笠島町並みもその技術で建てられている。


      2016-7-22